高級焼肉店叙々苑はいかにして確固たる地位を築いたのか?

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ここ数年、希少部位の食べ比べや、熟成肉のブームなど、「焼き肉」の人気は高まるばかりです。

牛角や焼肉キングなど、全国にチェーン展開する店と、地域の名店がしのぎを削り、ますます熱い戦いが繰り広げられています。

そんな中、高級焼肉店としての確たる地位を築き、変わらぬ人気を獲得している店があります。

それが、「叙々苑」です。

創業者

創業者で現会長は新井泰道氏です。

1942年、神奈川県横須賀市の生まれ。

幼少の頃、家庭は貧しく、教科書代も払えない状況でした。

さらに、中学1年の時には、母親を亡くし、ますます家庭は窮乏していきます。

「早く自分で稼いで、食べたいものをお腹いっぱい食べたい」

これが、子供の頃の切実な思いでした。

就職

ある時、親戚から「焼肉屋で働かないか?」と誘われ、父親に相談します。

父親は、「包丁をトントンやっていれば金をもらえるから、楽だぞ」と、まるで関心がない素ぶりです。

貧しさから抜け出したい一心から、中学3年の3学期、卒業を前に実家を飛び出します。

新宿にあった「明月館」という焼肉店に駆け込み、住み込みで働くことにしたのです。

焼肉店での修行

早朝に起こされ、顔を洗って歯を磨き、午前8時には厨房に立つ。

そこから夜の11時までほとんど休憩なしで働きつづけます。

仕事が終わり、部屋に帰ると、先輩たちのあかで汚れた風呂に入り、においのついた布団を引っ張り出して、やっと眠りに就きます。

毎日が、この繰り返しでした。

休みは月に2日ほどありましたが、住み込みのため、自分の部屋はありません。

仕方なく、いつも通りに起きて、店が終わるまで外で過ごすしかありませんでした。

店の先輩からの扱いは酷かったものです。

その先輩を反面教師として独学で料理を学び続けます。

転機

そんな毎日が続いた1年後のある日のことです

仲のいい先輩に「大阪に行かないか」と誘いを受けます。

そこで、出前に行く振りをして、夜逃げ同然で大阪へ向かうのです。

大阪に着くと、先輩が働く店に入ることになりました。

しかし、ここがとんでもない店だということを知るのです。

店が入っているのは、3階建ての建物です。

1階には店舗があり、2階は住み込みの従業員の部屋です。

ところが、3階は賭博場になっており、怪しげな人物が頻繁に出入りしていました。

そのうち、「おまえも組織に入れ」と強引に勧誘されるなど、雲行きがあやしくなってきます。

「このままここに居ては、大変なことになる」と感じ、店を辞め、東京に舞い戻るのです。

再び東京へ

結局、翌年、東京に戻り、知り合いの紹介で神田の店で働くことにします。

焼肉店「大同苑」で、16歳から28歳までの12年半働いたのです。

ここで料理の基本を徹底的に仕込まれました。

この店は、花柳界出身の女将が切り盛りする店でした。

この女将に決定的な影響を受けるのです。

その頃の焼肉店では、盛りつけにこだわる店などありません。

しかも、ほとんどの客は男性です。

当然、盛りつけを気にする客ではありません。

しかし女将さんは、味に厳しいだけでなく、盛りつけに関してもこだわりました。

美しい盛りつけ、色映えの良さに、女性特有のこだわりを持っていました。

そこで培われた美的感覚は後に、「叙々苑」の店作りやサービスに大いに生かされることになるのです。

当時は第一次焼き肉ブームともいえる時期でした。

新井氏にも料理人として引き抜きの話が舞い込んできていましたが、この店を出て行く気には一切なりませんでした。

ところが、ある事件が起こり、裁判沙汰となり、店は閉店に追い込まれてしまいます。

やむを得ず、店を辞めなければならない状況に追い込まれてしまったのです。

半独立

「大同苑」を辞めたころ、「神楽坂で店をやらないか」との誘いを受けます。

広さ12坪程度の小さなリース店舗で、昔からの知り合いがやっていたものです。

経営が上手くいかず、新井氏の元に依頼がきたのです。

「おまえならきっと上手くいく」と太鼓判を押され、翌日から営業ができる気軽さもあり、店をそのまま引き継ぐことにします。

いわば、半独立の形で店を切り盛りすることになるのです。

退職金や貯金した200万をつぎ込み、経営者として、初めて店を持つことになったのです。このとき、29歳。「いずれ自分の思い描く店を持とう」と決意を持っての船出でした。

しかし、雇われる側と、雇う側ではまったく違うことを痛感させられます。

店のやりくりは上手くいかず、わずか1週間で自信を無くしてしまいます。

そこでオーナーに、「お金を返してくれ」と嘆願します。

しかし、「男がそれでどうするんだ!」と怒鳴られ、やっと目を覚まします。

「やるしかない!」と決心し、一日14時間の、働きづめの毎日を送ります。

やるしかない

早朝に起き、長い距離を自転車をこいで店に向かいます。

店に到着すると、仕込みを行って、ランチタイムを迎える。

ランチタイムの後は、「準備中」の看板を下げて、夜の仕込みをスタート。

午後5時から夜中の1時まで営業を続けました。

一緒についてきた後輩2人と3人で、「とにかく必死で働いた」と言うほど、身を粉にして働き続けます。

すると、1月の売上が60万円程度だった店が、月に360万円を売り上げる店になっていったのです。

この店で資金を貯め、次のステップのために、着々と準備を進めていきます。

しかし、原価率が50%、人件費もぎりぎりまで下げる戦略には、限界も感じていました。

次のステップとして自分の店を持つことを決意します。

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独立

東京神楽坂の店で、猛烈に働き続ける、叙々苑創業者の新井氏。

初めて自分で持った店は、街の中心から遠く離れた住宅地にありました。

場所柄から、出版社で働く人も多く、気軽に立ち寄れる感じの店でした。

当時の一番高いメニューは、カルビ550円で、値段設定としてはこれが限界でした。

さらに売上を上げようと、「東京で一番高く売れる場所はどこか」と思案します。

そこで、長時間の営業も可能な六本木への出店を目指すことにします。

叙々苑誕生

1976年4月、六本木に1号店をオープンさせました。

新井氏が33歳の時でした。

店名は、店の常連客の言葉をヒントにしています。

「あそこは外国人も多く来るだろう。外国人は肉を焼くときの音を、『じゅうじゅう』ではなく、『じょーじょー』と発音するんだ」

そこで、語呂も良く、発音しやすいということから、「じょじょえん」という店名を思いつきます。

そして、辞書を引きながら、「じょ」と発音する漢字を探し出し、

高尚な意味も含むことから、「叙」の文字を選びます。

店名を「叙々苑」に決めた氏は、本格的に高級焼肉店作りに取り組みます。

看板等に使われる「叙々苑」の字は、建築家であり書道を趣味にしている爆笑問題・太田光の父が携わっていると太田が語っている

1960年代より六本木で朝鮮焼肉と言えば「東京園」が有名でした。

「叙々苑」はその六本木7丁目の同じく外苑東通り沿いで狭小店舗からスタートします。

そして、少しずつ客席を拡大し、バブル景気を境に急成長を始めるのです。

ターゲットを絞る

六本木で店を開くにあたって、意識したのが、「午前0時からが勝負」ということでした。

六本木は、銀座で店を終えたホステスが来る街でした。

そのホステスたちに、気分よく来店してもらえるような工夫を施していくのです。

まず行なったのが、ライバル店の研究でした。

実際にライバル店に出向いて調査しました。

ライバルが朝方4時まで営業していれば、5時まで営業する。

女性従業員が5人いれば、6人そろえるなど、徹底して対抗します。

店内では、昼と夜で照明の明るさを変えます。

トイレは清潔で豪華な作りにし、照明も一段と暗くします。

暗くした理由は、仕事で疲れきった自分の顔を、まじまじ見たくないという女性心理を考えてのことでした。

店内は、焼肉店らしからぬ赤じゅうたんを敷き詰め、照明も贅沢なつくりにします。

従業員の身なりにもこだわりました。

女性には紺縞シャツ、男性には蝶ネクタイを締めさせ、高級感を演出します。

当時は、どの店も白着の定食屋スタイルが一般的でした。

入ってくるなり、「間違えた!」と思って、帰り出そうとする客もいるほどでした。

また、焼肉店といえば、換気が悪く、店内は煙と焼き肉のにおいが充満しているというのが定番でした。

そこで、煙を効率よく排出できるように内装を工夫します。

まだ認知度の低かった無煙ロースターの導入をはかります。

東京で無煙ロースターを取り入れたのは、この店が初めてのことでした。

「なんでもおっしゃってください。一生懸命がんばります。」

調理だけでなく、フロアーに出て、こんな言葉を掛け続けます。

徹底的にお客さんの要望に応えていきます。

その結果、「焼肉店初」のメニューやサービスが次々と生まれていきます。

メニュー秘話

例えば、今では定番の食べ方となっている「牛タンにレモン」を添える。

これは、叙々苑が始めたことでした。

タン塩をメニューに加えたとき、あるお客にこう言われます。

「マスター、私はレモンが好きだから、たれの代わりにレモンを持ってきて」

この組み合わせが意外にも合うことが分かり、レモンダレの開発につながります。

「上カルビ」も、叙々苑が始めたメニューです。

あるお客さんが、出されたカルビについて、

「私たちは、こういう脂肪がついたお肉は嫌いなのよ。いいところだけを出してね」

と注文を入れてきます。

そこで、リクエスト通りに、脂肪の部分をカットして出したところ、これが大好評となります。

しかしこれでは、採算が合わないという問題が生じます。

そこで考えたのが、名前に「上」をつけることです。

上質のカルビであることをアピールし、高めの値段設定をしました。

さらに、それまでの常識を変えたのが、肉の盛りつけ方です。

それまでの店では、味付けした肉を、皿の上にポンとのせるだけでした。

この盛りつけを、よりおいしく見せようと考えたのが、肉を一枚ずつ丁寧に盛りつけることでした。

厨房からは、「面倒くさくて、やってられない」との声もあがりますが、料理人を粘り強く説得し、定着させていきます。

他にも、「食後のデザート」や、「帰り際に渡す、におい消しのガム」など、いくつもの「業界初」を生んでいくのです。



行列の出来る焼肉屋

すると、半年も経つころには、行列ができる人気店になります。

お札がレジに入りきらず、足元のダンボールに入れて対応しなければ間に合わないほど、お客さんで溢れるようになるのです。

今では、叙々苑は国内に58の店舗を構えるに至り、高級焼き肉店として確たる地位を築きました。

創業者の新井氏は、お店を立ち上げたころ、お客が帰るときに、何食わぬ顔をして、一緒にエレベーターに乗り込み、聞き耳を立てていたと言います。

すると、

「今日はおいしかった」

「○○のメニューはいいね」

「○○はおいしくないね」

と、客同士の本音が思わず口をついて出てくるのです。

そこで聞いた声は、すぐに店の運営に取り入れて、改善し続けました。

また、新井氏は日々放送される料理番組を、すべて録画していたといいます。

居酒屋から高級レストラン、和食から、中華、フレンチまで、ジャンルに関わらず、すべてをチェックし、「ヒントになるものはないか」を絶えず探し続けていたのです。

さいごに

会社を黒字にし続けるための秘訣として、たゆまぬ研究心を持ち続けることが挙げられます。

創業者の、たゆまぬ研究心が叙々苑を成功に導いた原動力になっていることは間違いありません。

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