大学受験に学問の神天満宮で功徳を頂き難関突破できたら菅原道真さんも喜んでくれるはず。

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菅原道真公は学問の神様として全国各地の天満宮に祀られています。

しかし、その生涯を見ると不遇の晩年です。

そんな道真さんが、なぜ学問の神様になり、受験生に人気があるのか、不思議ですね。

その疑問を解決し、守護していただき、難関突破できれば良いですね。

菅原道真公の人生を知れば、大学受験に勝利するのは簡単かもしれません。

菅原家とは

菅原家は、天穂日命あめのほひのみことに起源をもつ平安時代の貴族です。

曾祖父古人公の時代に、学問をもって朝廷に仕える家柄となりました。

祖父、清公きよきみ公は私塾を設け、朝廷の要職に数々の官人を輩出します。

天穂日命…天照大御神の息子神で、「農業・産業の神様」として信仰されています。

菅家は侍読(天皇の側に仕えて学問を教授する学者)も務めた学者の家系です。

祖父菅原清公と父はともに大学頭・文章博士に任ぜられています。

母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している家柄です。

正室は島田宣来子(清公の弟子であり道真の漢詩の先生である島田忠臣の娘)です。

長男・高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家など堂上家(半家)を輩出しました。

高辻家からは明治時代に、西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として存続しています。

高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女は蜻蛉日記の作者です。

要するに、菅家一門は学問に秀でた高級官僚の血筋なのです。

学問が出来て当たり前の人達なんですね。

出生の秘密

道真の生誕地については諸説あります。

ウィキペディアには下記のように出ています。

『天神縁起』によれば、承和12年(845年)春頃、十一面観音菩薩を安置する高松山天門寺にある菅生池の菅の中より忽然と容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿)なる5・6歳の幼児が化現し、光を放ちながら飛び去り、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという

長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。

菅原天満宮によれば是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。

滋賀県余呉町には、道真が天女から産まれたという天女の羽衣伝説が残されている。あらすじは、あるとき、漁師の桐畑太夫のところへ美しい天女が舞い降りる。太夫は羽衣を隠し無理矢理その天女と夫婦になる。そして、玉のような男の子が産まれ陰陽丸と名づけられる。しかし、天女が羽衣を見つけ天に帰ってしまい、桐畑太夫もそのあとをおい天にのぼっていってしまう。男の子は石の上に捨て置かれ、母恋しさに法華経のような声で泣きじゃくる。そこに、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が通りかかり憐れに思い引き取り養育することにした。その後、菅原是善が菅山寺に参拝にきたさいその子供を養子にする。この子供こそのちの菅原道真だという。

江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。

道真を神格化しようという意図が根底にあるようです。

経緯はどうあれ、菅原是善の息子として学問に秀でた貴族の家に誕生したのが道真です。

道真の成長

道真公は、幼少の頃より学問の才能を発揮され、わずか5歳で和歌を詠まれるなど、神童と称されました。

道真公は、さらに勉学に励み、学者としての最高位であった 文章博士となり、右大臣にまで登りつめます。

学問だけでなく、弓にて百発百中の腕前を披露されるなど、文武両面に傑出した人物です。

出世躍進

京都から讃岐国の長官として赴任され、善政を行い、住民に大変慕われたといいます。

その実績が宇多天皇に認められ京都に戻り、厚い信任を受けます。

寛平6年(894)、唐の国情不安と衰退を理由に遣唐使停止を建議されました。

これにより大陸文化の流入が無くなり、日本独自の国風文化が開花していきます。

その後、右大臣に任じられ、国家の発展に尽くされていました。

菅原道眞の左遷

晩年、菅原道眞公は右大臣藤原時平の陰謀によって太宰府に左遷されます。

重用してくれた宇多天皇は上皇に退き、醍醐天皇の御代となっていたのです。

藤原氏はこの機会を狙って醍醐天皇に偽りを奏上したのです。

学問や仕事ができ、宇多天皇にも愛されていたのですが、同僚の公家衆の嫉妬ややっかみもあり、無実の罪を被るのです。

出世するには上司にゴマをするのは当たり前です。

しかし、足元をすくわれないために部下にもゴマをすらないといけないのです。

宇多天皇は藤原氏の勢力が大きすぎるので、勢力を削ぎたかったのです。

天皇は藤原時平はまだ若いという理由で、道真を突出して出世させた一面もあります。

藤原氏が思いのままに国を治めていたので、宇多天皇も面白くなかったのです。

巻き返しを図る藤原氏は権力を取り戻すべく、道真の失脚を画策します。

それだけ藤原氏一族の権勢欲の念が強かったのでしょう。

道真が太宰府に行く前に詠んだ有名な和歌に次のようなものがあります。

東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ

東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。

道真を慕う庭木たちのうち、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの、悲しみのあまり、みるみるうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったといいます。

梅と松は、道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛んで追いかけます。

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ところが松は途中で力尽きて、兵庫県神戸市須磨区板宿町近くに根を下ろしました。

後世「飛松岡」と呼びならわされる丘です。(これを飛松伝説と言う)。

一方、残った梅だけは、見事その日一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、

主人の暮らす大宰府の地に降り立ったといいます。(飛梅伝説

菅公は無罪を訴え続け、失意のうちに太宰府で亡くなりました。

ここで終われば、菅公は天神様になっていません。

菅公の死後に物語が大きく動くのです。

菅原道真の怨霊

菅原道真は九州・大宰府(だざいふ)に左遷され、失意のうちに亡くなりました。

菅原道真の死後、朝廷では不吉な事件や天変地異が頻発します。

まず、菅原道真を左遷に追い込んだ藤原時平が病死し果てます。

そして、醍醐天皇の息子で藤原時平の甥である皇太子も死んでしまいます。

また、朝廷での会議中に雷が落ち、道真を左遷に追い込んだ数名が焼け死んでしまいます。

そのことから、「これはきっと菅原道真の怨霊に違いない!!」という噂が広がり、

その祟りを鎮めるために、菅原道真を神として奉り、それが「天満宮のはじまり」です。

当時の考え方では、怨霊などを畏れおののき神として祀ることで、恨みを解いたようです。

平将門なども、怨霊となったのですが、神田明神として祀られていますよね。

鎮魂の意味合いから始まったのが天満宮と言えます。

菅原道真は非常に頭が良かったので「学問の神様」としても祭られるようになりました。

今では、受験シーズンに多くの人が合格祈願にくるようになったのです。

道真の奇譚

道真が亡くなって間もない頃に延暦寺の法性坊尊意は、醍醐天皇の依頼で祈祷(きとう)を行うため御所に向かっていると突然、鴨川の中から道真の霊が現れるのをを目撃したそうです。

尊意と道真とは旧知の間柄で、尊意が数珠を手に持つと鴨川の水がわかれ、そこから出てきた岩(登天石)の上に立っていたといいます。

病床に伏せていた時平のために加持祈祷をさせようとした文書博士、三善清行の前に道真は龍となって現れたといわれています

天慶5(942)年、右京七条二坊に住んでいた道真の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に道真が立ち、

「北野の地にまつってくれれば報復の心も安らぐことでしょう」

と告げて消えたという言い伝えがあります。

もともと北野の地に火雷天神(からいてんじん)が地主神としてまつられていました。

道真は清涼殿に雷を落としたことで、都人から“雷神”として恐れられていました。

これが信仰と結びつき、このような伝説になったようです。

お告げから5年後の天暦元(947)年に北野の地に朝廷が社殿を造営しました。

これが、道真をまつったのが北野天満宮の始まりになります。

また道真が亡くなった大宰府の墓所の地には安楽寺天満宮(のちの太宰府天満宮)が建てられ、これで、京の都もようやく平静を取り戻したといいます。。

名誉の回復

京都で起こった様々な恐ろしい異変を朝廷は菅原道真の祟りだと確信します。

そして、菅原道真の魂の鎮魂のため、島流しとなっていた菅原道真の子供たちを京都へ連れ戻します。

延喜23年(923)4月20日、菅原道真を死後、右大臣に復し、正二位を与えました。

また70年後の正暦4年(993)には贈正一位左大臣としています。

このように、菅原道真の名誉回復は行われてきました。

菅原道真の子孫

菅原道真は妻・島田宣来子の他に妾がいたそうです。

それで、15人の子供に恵まれました。

多くの子供たちは菅原道真が左遷されたことによって地方へと送られます。

そして菅原道真亡き後は京都へ戻ったとされています。

公家の菅原家は、高辻家となり、後に西高辻、五条、東坊城、の三家に分かれます。

いづれも儒教を司る儒家です。(家格は半家)

江戸期では、五条家は171石、相撲の司、明治以降は子爵

東坊城家が300石、極官が大納言、明治以降は子爵

西高辻家は、大宰府天満宮の宮司の家となり、明治では男爵。

菅原道真の遺伝子

全ての人間は父親と母親がいないと生まれて来ません。

そう考えると、三代前なら8名のご先祖様がいて、四代前なら16名のご先祖様がいることになります。

ご先祖様の人数は代を遡るごとに2の乗数で増えていきます。

菅原道真は約1200年前の人物です。

単純に25年で一世代とすると、48代くらい前の人物に相当します。

と言うことは、2の48乗なのですが、約281兆と言う天文学的な数になります。

私たちは、先祖を代々遡れば、どこかで菅原道真にぶち当たることは高い確率で有ります。

もしかすると、私たちの遺伝子の中に菅原道真がいる可能性が高いのです。

少なくとも、限りなく0に近いかもしれませんが、0では有りません。

まとめ

現代に生きている人類のルーツは、アフリカの突然変異した女性だと言われています。

今の人類はそこから発生しているのです。

それを考えれば、薄い濃いはあれども菅原道真と繋がっています。

遠い近いはあれども、広い意味で身内なんですね。

そう考え、天神さんに合格祈願に参拝すれば、絶大なる守護を頂けると思うのです。

何しろ相手は超天才ですから、期待できると思いますよ。

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