大坂なおみを支えるラケットのヨネックス躍進の秘密!創業者は「越後の雪だるま」と言われた「ピンチはチャンス」の米山稔氏

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大坂なおみ選手は、2018年全米オープンテニス女子シングルスにて、日本人初のグランドスラム優勝を果たします。

2019年1月の全豪オープンでも、優勝を果たし、ATPランキング第1位となりました。

日本人で初めて、世界の頂点に立つテニス界の女王が誕生したのです。

しかし、世界中のプレイヤーから追われる立場となった大坂なおみ選手です。

しかし、5月の全仏では、世界42位のカテリナ・シニアコバ(チェコ)に3回戦で敗れてしまいます。

そして、期待されたウインブルドンでも、まさかの一回戦敗退となりました。

女王の座を、6月24日に、当時世界2位のアシュリー・バーティに明け渡しています。

日本人としては、何としても、王座を奪還してほしいと、願わずにはいられません。

そんな大坂選手が使っているラケットは、ヨネックスのものです。

ヨネックスは、大坂選手の世界1位およびグランドスラム2連勝の快挙を記念し、フレームが金色に輝くゴールドラケット「EZONE Limited」を贈呈しました。

スポーツ用品メーカー「ヨネックス」

ヨネックスはバドミントンラケットの製作から、スポーツ用品業界へと参入しました。

その後、テニスラケットの製造、販売に参入します。

そして、ゴルフクラブやウエアの製作へとその幅を広げていきます。

2011年には、 Jリーグ・柏レイソルとユニフォームサプライヤー契約を結びました。

チームスポーツであるサッカーへの参入も果たしました。

創業者は、「越後の雪だるま」と言われた米山稔氏です。

ヨネックスはここに至るまでに、幾度となく、倒産の危機に見舞われてきました。

しかし、絶体絶命のピンチを乗り越えるたびに、雪だるまのように、より大きくなって世界のヨネックスへと発展してきたのです。

ヨネックスを世界的企業にした、米山稔氏の経営哲学の基本

「ピンチはチャンス! チャンスはピンチ」

「世の中は、毎日変わっていくもの。経営者がその変化に気づかない場合、会社は必ずピンチを迎える」

生い立ち

米山稔氏が生まれ育ったのは、豪雪に閉ざされる、新潟県の塚山という小さな村です。

1946年に「米山木工所」を創業します。

桐木栓(酒造用呑み口)の製造でスタートし、漁業用木製ウキの製造を主とします。

これが大正解となりました。

当時は北洋のサケ・マス漁の全盛期であり、地元には木製ウキの材料になる桐材が豊富にあり、安い価格で手に入れることができたのです。

さらに、桐木栓で培った木工技術を生かせることもあり、木製ウキの製造、販売は、順調なスタートを切りました。

受注はどんどんと増え続けていき、ひょんなことから地元の衆議院議員にも当選します。

十人程度の会社とはいえ、地元では、「若き事業家」と持てはやされるようになっていました。

ピンチは突然に

しかし、得意の絶頂にいたとき、ピンチは突然に訪れます。

さばき切れない程あった、木製ウキの注文がピタリと止まってしまったのです。

なぜ、急に注文がこなくなったのか、その訳が全く分かりませんでした。

得意先のある北海道へと向かったのですが、そこで初めて衝撃の事実を知ります。

なんと! 去年から、漁網が木製からナイロン製に変わってきていたのです。

それに伴い、ウキも木製からプラスチック製に変えざるを得なくなっていたのです。

漁業の世界に素材革命が進行していたのです。

しかし、米山氏は全くその変化に気づきませんでした。

敗北の原因は大きく2つ。

一つは情報力の不足であり、もう一つは技術力の遅れです。

そして、この時に味わった敗北感が、ヨネックスが成長していくうえで、のちに、大いに役立ったといいます。

産業の実態や消費者の嗜好は常に変わっています。

その変化を感じ取る直感力を常に養っておかないと、業績の良い会社も簡単に潰れてしまう。

米山氏は、この失敗から悟ったのでした。

著書「ピンチはチャンス!」

米山氏は著書「ピンチはチャンス!」の中で、述べています。

「大切なのは変化することが正しい、変化は当然、と骨の髄まで認識させることだ。

人間は一日ごとに官僚化していくという原理がある」

この官僚化を防ぐ力は、お客様第一主義と市場競争である。

消費者の要望に応える製品を供給できなければ、市場競争に勝ち残ることができない。

この木製ウキの敗北のあと、3年かけて、徹底した市場調査を行います。

その結果、バドミントンラケットの生産による復活を心に決意します。

何とか中小企業金融公庫(現在の日本政策金融公庫)から融資を受けられることとなり、

新分野の事業をスタートさせることができたのです。

米山氏は、バドミントンラケット最大手であるサンバダに何度も交渉を続けました。

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結果、その熱意によって、下請け業者の位置を獲得します。

そして、社員全員に、「日本中があっと驚くラケットを作ってみよう!」と訴えかけます。

朝5時から夜11時まで、自ら現場の陣頭指揮にあたっていたといいます。

その甲斐もあって、米山木工所(米山製作所)は、瞬く間に資本金400万円、従業員50人を越える地域の優良企業へと成長していったのです。

しかし、バドミントンラケットを始めて5年目の秋、二度目の大きなピンチが訪れます。

製品納入先のサンバダが、突然不渡りを出して倒産してしまったのです。

サンバダの負債総額3000万円の内、米山製作所の損害は、月商の3倍にも及ぶ820万円に達しました。

連鎖倒産も時間の問題という絶望的な状況の中、走馬灯のように、仕入先や融資を受けた銀行、懸命に働いてくれている社員など、お世話になった様々な人の顔が浮かんだと言います。

「これらの人に、自分はどれだけの迷惑をかけてしまうのか…」。

残された道は自殺しかないとまで思ったそうです。

しかし、このどん底から死んだ気になって這い上がります。

親会社の倒産をきっかけに、米山製作所は生産だけでなく、販売も自分たちで行う、自社ブランドメーカーへと脱皮していくのです。

自社ブランドメーカーへと脱皮

小さなスポーツ用品メーカーと直接取り引きしてくれる問屋を見つけるのは、容易なことではありません。

米山氏は歯を食いしばって、片っ端から問屋まわりをしたといいます。

そのうち、名古屋市にある東海スポーツ用品の瀬尾実社長と知り合うことになります。

この時、「3年後にバドミントンラケットで日本一になります。それからでは遅いですよ」、と一世一代の啖呵を切ったそうです。

「どうやって3年後に日本一になるのか?」

瀬尾社長の質問に対しては、一夜漬けの経営戦略を自信満々に披露します。

「人の3倍物事を考え、2倍働く」、その熱意で、見事取引へとこぎつけます。

これをきっかけに各地の問屋とも取引を始めることに成功して行きました。

これで、自社ブランド作戦を軌道に乗せることができたのです。

米山氏と米山製作所(現ヨネックス)は、絶体絶命の死の淵から再起しました。

ピンチが来るたびに、雪だるまのごとく、さらに大きく発展を遂げていったのです。

まとめ

私の勤める会社でも創業者の伝説があります。

主力得意先の倒産が発端となり、会社存続の危機です。

どこもお金を貸してくれません。

そこで地方銀行の友人を頼ったそうです。

そこで言われた言葉は「お金は会社に貸すのではない、お前に貸すのだ。」

本来なら融資など無理だったのです。

そこを、創業者の人柄と熱意で銀行を動かしたのです。

経営者が脱皮し大きく躍進するために、苦難がやって来るとも言えます。

絶体絶命のピンチが来るたびに、大きく脱皮するチャンスが来るのです。

ヨネックスを見るたびに奮起したいものです。

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