ヨネックス成功の秘密は「越後の雪だるま」と言われる米山稔氏の乗り越える力か?

スポンサードサーチ

プロテニスプレーヤー大坂なおみ選手は思うような結果が出せず、女王の座から陥落しました。

しかし、現在(2019年8月25日)ピンチをチャンスに変え、より進化した本物の女王として、世界ナンバーワンの座に返り咲きました。

大坂なおみが使うラケットはヨネックス製です。

ヨネックスにも大きな試練を乗り越えた歴史があります。

大坂なおみにはヨネックスのようにピンチをチャンスに変え躍進を期待します。

得意先の倒産を乗り越えて

ヨネックスの創業者である米山稔氏は、「3年後に日本一のバドミントンメーカーになる」という公約をいたしました。

そのため、「人の三倍物事を考え、二倍働く」と自らに言い続け、日々仕事に没頭します。

そのため、2年目からは、ラケットの販売も順調に伸びていきました。

日本一実現構想のために上野から湯島へと事務所を移転することができました。

ここを拠点にして、さらなる販路拡大を目指してました。

ところが、自社ブランド製品の販売が軌道に乗り出した矢先に、またもや、とんでもない危機が待ち受けていました。

本社の工場が、火災で全焼!

1963年5月11日夕刻、新潟にある本社の工場が、火災で全焼してしまったのです。

製品納入先サンバダ倒産から僅か一年八ヶ月後のことでした。

類焼による被害は、全焼が二軒、半焼が二軒でした。

田舎社会では、火災による他家への迷惑が、そのまま事業の停止へとつながりかねません。

「今度こそ終わりか……」、とそんな思いが脳裏をかすめたそうです。

しかし、ここで倒産してしまえば、社員や取引先、被災者にもなんの補償もできません。

そして、米山家の家族一同も、先祖代々生活を営んできたこの村から離れることになります。

ここまで米山氏は我に返ります。

そして、

「このピンチを乗り切るためには、誰よりも自分が冷静に対処する必要がある。

動揺を見せれば、助からない。なによりも先に、地元の理解を得なければ……」

と、工場や自宅には目もくれず、真っ先に焼き出された家族の見舞いに向かったのです。

「できるだけの誠意をもって補償させていただきます……」

と頭が地につかんばかりにお詫びをしました。

「米山さん、事情は分かったが、それよりも、会社が潰れれば補償もないではないか。

会社は大丈夫ですか?」

と思ってもみなかった温かな言葉をかけてもらいます。

こうした温かい思いやりに応えるためにも、工場再建が急務と考え全力をつくしました。

工場は全焼してしまったのです。

それでも、製品を供給できなければ、、取引先を失うことになります。

豊臣秀吉は三日で城を築いた

製品を切らさないようにと、社員や棟梁を集めて、工場を3日で再建するよう促します。

「豊臣秀吉は三日で城を築いたそうだ。これに倣って三日で工場を建ててくれないか」

との氏の言葉に、最初は呆気にとられてい多そうです。

棟梁も、その熱意に押され、「やれるだけやってみよう」と引き受けてくれたのです。

米山氏は、この時のことを、著書「ピンチはチャンス!」の中で次のように綴っています。

「本当に三日で工場が完成すると思っていなかった。しかし、地方の中小企業とはいえ、私は社長である。

会社存亡の危機に瀕して、トップが弱気になっていたら社員も不安になり、危機を乗り越えられるわけがない。

無理を承知で、『三日で工場を』と主張したのである」

こうした米山氏の気概により、意気消沈していた社員も元気を取り戻していきます。

そして、米山氏の息吹に触れた大工の棟梁は、仲間を全員集めて、総動員体制で工事に取り掛かってくれたのです。

もちろん、米山製作所の社員も、皆総出で建築工事を手伝いました。

その結果、奇跡が起きたのです。

建物の外壁が2日で完成、3日目には電気工事等も終えました。

なんと!秀吉の墨俣城の如く、本当に3日で工場が再建されたのです。

墨俣一夜城

築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。

ウィキペディアより

スポンサードリンク

いわゆる墨俣一夜城と言われていますが、諸説あり三日かけて築城したとも言われています。

蜂須賀小六らの協力を得て、夜に上流から材木を流し、中洲で早朝までに組み立てる。

始めは張りぼてみたいなものであったが、徐々に堅牢にしていったようです。

奇跡が起きた!

ラケットの在庫は、東京事務所と外注に出していた分等を含めると、一週間分ほど蓄えがありました。

火災から一週間後には、新設工場より、次々と製品が出荷されていきました。

製品は欠品する事なく、問屋に納品することができたのです。

この奇跡の復活に業界全体が驚愕します。

「復興するには早くても半年はかかる。ヨネヤマはもう駄目だろう」

と内心誰もが思っていたにも関わらず、一切製品を切らすことなく再建を果たしたからです。

本社工場が全焼という絶体絶命のピンチを迎え、倒産かと思われた米山製作所でした。

この一件で、「工場が全焼しても製品を切らさなかった米山とは凄い男だ」

との評判が立ち、ヨネヤマブランドの信用が一気に高まったのです。

トップとしての責任が奇跡を呼び起こした

米山氏は、「企業のトップとしての責任が奇跡を呼び起こしたと思っている」と言います。

創業から十数年の間に、三度もの大きな危機を迎えたヨネックス(米山製作所)です。

それを乗り越えるたびに大きくなっていきました。

本社工場全焼の翌年には、バドミントンラケットの生産、販売とも日本一を達成します。

そして、1969年には、アルミ製ラケット「アルミナエース」を販売し、世界市場にも受け入れられるようになります。

1971年には、英国の名門企業を抑えて念願の世界一を達成したのです。

米山氏の経営哲学

経営哲学は「ピンチはチャンスに変えて次のステージに進む」というものです。

ピンチを迎えるたびに脱皮し、一回りも二回りも大きく発展を遂げてきいきます。

米山木工所からスタートした会社は、1958年に「米山製作所」へと社名を変更。

その後1963年には、貿易部門である「ヨネヤマスポーツ」を設立します。

1967年には、社名を「ヨネヤマラケット」へと再度改称。

1974年に「ヨネヤマスポーツ」再再度改称。

1982年に現在の「ヨネックス」へと落ち着きました。

米山氏は、各界の一流スポーツ選手からも信頼されています。

現在、ヨネックスは、ゴルフクラブ、サッカー用品等をも幅広く扱うようになりました。

そして、押すに押されぬ世界のスポーツ用品メーカーになったのです。

一番大事なこと

経営者にとって一番大事なことはなにか。

それは、会社を絶対に倒産させないことです。

何が何でも会社を存続させていくという気概と根性だと言います。

米山稔氏の経営者人生では、幾度となく倒産の危機が襲います。

しかし、すべてチャンスに変えて乗り越えてきました。

むしろ、大きなピンチがあったからこそ、大きな発展を遂げることができた。

そして、世界のヨネックスになったのでしょう。

まさに、著書のタイトルである、「ピンチはチャンス!」でした。

ピンチの度に大きく脱皮する米山氏が「越後の雪だるま」と言われる所以なのです。

「人間は死ぬ気になれば、なんでもできる」

「人間の持っている潜在能力は計り知れない」。

「天がくれた限りない能力をすべて引き出してこそ、運は開けてくるもの」

その著書の中で、上記のように結んでいます。

ヨネックスの製品には、この米山氏の精神が溢れていると存じます。

米山氏の経歴を知ってヨネックスのラケットを握れば力漲るはずですね。

まとめ

大坂なおみ選手は再び女王に返り咲きました。

また、今回のUSオープンでも活躍する事でしょう。

大坂なおみの時代が長く続くことを祈らずに入られませんね。

スポンサーリンク