加賀白山の銘酒『菊姫大吟醸』にはご祭神菊理姫様が好む杜氏農口尚彦氏がいた!

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石川県小松市に70年酒造りの道に徹した人物がいます。

農口尚彦、「酒造りの神様」と呼ばれる杜氏です。

衰退の一途をたどっていた山廃仕込みを学び、その味の深さを世に知らしめた人物です。

米の旨味が納得いくまで引き出されるよう研究を重ね、造り上げたのが銘酒「菊姫大吟醸」なのです。

農口尚彦氏は2019年4月時点で86歳になります。

今なお、年齢を全く感じさせない強靭な体を持ち、現役として酒造りに専念しています。

また同時に、若手にも酒造りの技術や精神、生き様を教えています。

そんな農口氏ですが、実はお酒が飲めません。

お酒の飲めないながらも農口氏はどのように酒造りに向かい、神様と呼ばれるまでになったのでしょうか。

農口杜氏の生い立ち

農口氏は1932年、石川県内浦町(現・能登町)に生を受けます。

祖父・父ともに杜氏の家系です。

農口氏は中学卒業後の16歳で静岡県の酒蔵に入ります。

その後三重県の酒蔵に入り、厳しい修行の日々を10年間送ります。

27歳の時に白山市にある菊姫合資会社の杜氏に抜擢されます。

杜氏としての最初のお酒。静岡と三重で習得した技術を存分に発揮して造りました。

そして、農口氏としても納得の清酒が出来上がったのです。

ところが、地元の人達から、「こんな薄い酒は飲めない」と酷評を受けます。

農口氏の造ったお酒は、香りのいい軽いお酒で、飲みやすいはずです。

静岡や三重などの東海の人たちには非常に好まれたお酒でした。

石川県地元の酷評

当時、石川県の地元では山で仕事をする肉体労働者が多かったのです。

彼らの楽しみは、仕事終わりにお店へ寄って飲むお酒でした。

体に染み渡る酒を飲んで、ぐっすりと寝て翌朝目覚めよく起きて仕事に行くのが習慣でした。

東海の人たちに人気の、香りのよい軽いお酒は、地元の人達には物足りなかったのです。

厳しい修行を続け、精魂込めて造ったお酒を酷評され悩み、落ち込みます。

挫折からの挑戦

試行錯誤をくり返し、同じ品種のお酒であるのに毎年味が変わってしまいました。

杜氏としてあるまじき事態でした。

それでも当時の社長、柳辰雄氏は農口氏を杜氏から解くことをしませんでした。

農口氏はわからないながらも毎年毎年酒を造り、少しずつ味がよくなっていきました。

農口氏は己の思いだけでお酒を造っていたと気づきます。

飲んでくれるのはお客様であり、そのお客様に気に入ってもらえるお酒を造らないといけない。

つまり、市場のニーズを把握し、そのニーズに合ったお酒を造らないといけません。

反省した農口氏は、当時の社長からの助言もあり、製造者が減少し、存亡の機を迎えていた「山廃酛(やまはいもと)造り」に挑戦するのです。

日本酒の造り方

日本酒には大きく三種類の造り方が存在します。

生酛(きもと)造り山廃酛造り、そして速醸酛(そくじょうもと)造りです。

1960年当時は、速醸酛造りが主流となっていました。

速醸酛造りは三種の中で、最も近代的な造り方でです。

二〜三週間という短期間で日本酒を造ることができるのです。

それに比べて生酛造りは伝統的な造り方です。

お酒ができるまで約一ヶ月かかります。

生酛造りには、山卸(やまおろし)という製造工程があります。

その工程を省いた山卸廃止酛(もと)山廃酛と呼びます。

そして、味わいは速醸酛造りよりもしっかりしたものになります。

「菊姫」誕生

京都の酒蔵に三年間通い続け、山廃酛づくりの造り方を学びました。

当時の日本で減少していた山廃酛づくり技術です。

京都の酒蔵の真継(まつぎ)さんという方に教わります。

今でこそ、いろいろな蔵で山廃が造られています。

しかし、この時に教わりに行かなかったら、山廃酛の技術は無くなっていたかもしれません。

真継さんはどんどん速醸に移っていく中で、山廃が無くなっていくのを悲しんでいました。

そこに、農口さんが教わりに行ったので、包み隠さず全てを教えてくれたのです。

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その後、山廃の技術を習得し、農口さんが造ったお酒で「山廃ブーム」が起きました。

そこで習得した技術を駆使し、毎年研究を繰り返しました。

そして、農口氏のお酒は味わい深さがありコクがある濃厚な美酒になっていくのです。

ついに、石川県の地元の人に気に入られるようになります。

同時に、北陸全土に「菊姫」の名前が知られるようになります。

10年の歳月をかけて到達したのです。

絶対に妥協はしない

農口氏はさらに理想の酒「香りと味が調和したお酒」を求めます。

酒造りの研究が進み、特定の酵母を混ぜれば高級感のある香りを出すこともできます。

しかし、農口氏は絶対に妥協せず、真摯に酒造りに向かう姿勢を崩しませんでした。

酒が飲めない農口氏は様々なイベントに積極的に参加し、お客さんにお酒を飲んでもらうことで、感想をどんどんと集めました。

また、台湾やブラジルなどの海外視察も行い、海外のニーズも研究しました。

日本各地の講演会にも参加し、市場の動向について、常に目を光らせました。

酒造りには、麹菌や酵母菌の状態に神経を集中させました。

夜中に何度も起きて、麹の温度、湿度、菌の根付き具合など状態を確かめました。

数値データだけに頼らず、手ですり潰した米の感触、舌に乗せた時の味、噛みごたえ、目で見た時の米の状態など、五感を研ぎ澄ませて、理想のお酒を求めました。

お客さんの喜ぶ、香りと味が調和したお酒の研究をくり返しました。

銘酒「菊姫大吟醸」誕生

そして昭和43年、ついに納得のいくお酒が完成します。

それが銘酒「菊姫大吟醸」です。

葛藤を乗り越え、研究を重ね、今までの経験を集大成して造られたお酒です。

農口氏の秀逸を極めた傑作品でした。

当時、吟醸酒は市場にほとんど出回っていませんでした。

お酒は生き物であり、大吟醸となると酒造りにより繊細さが求められます。

大吟醸の持つ味と香りを安定させて市場に出すのは、非常に難しかったのです。

吟醸酒の味と香りを安定させて市場に出すことは、大変な功績です。

農口杜氏と蔵人、他スタッフが培ってきた技術力と研究力の高さを証明しています。

酒づくりの神様

実は、農口杜氏は酒造りの一線から退いていたのです。

しかし、「後世に酒造りのノウハウ」を伝えるために現役復帰をはたします。

最前線に復帰し、7人の若者と共に酒づくりを再開しました。

その現場となるのは、農口杜氏の理想を詰め込んだ「農口尚彦研究所」といいます。

「夢や情熱を持った若者と共に酒づくりを行いたい」と設立されたものです。

今まで培ってきたものを若い世代に継承していくのです。

まとめ

「現場の中に入っていって、一生懸命、お客さんに接していくと一生懸命やっているときに、パッとお客さんが教えてくれる。パッと何かが目に飛び込んでくる。そうやってこそ消費者ニーズもわかるのです。」

「仕事とかビジネスというものは体で覚えて体で表現するもの」

「自分で研究しなかったら身につきません」

農口氏には、お酒が飲めないハンデキャップがあります。

しかし、現場に飛びこんで、ニーズとお酒の研究をどこまでもどこまでも重ねます。

その足跡が、やがて神様と呼ばれるまでの功績になりました。

地元、白山比咩神社の主祭神菊籬姫様はこのような人を好まれるのでしょうね。

命の水の親神さまと讃えられる女神様ですからね。

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