東郷平八郎、コッホ、プラネタリウム、グーグルアース、ハリウッド映画、これらの共通項を知っていますか?
それはドイツのカール・ツァイス社で造られたレンズを使っていることです。
東郷平八郎は日露戦争における日本海海戦で、カール・ツァイス社製の双眼鏡を使っていました。
コッホはツァイス社製の顕微鏡を愛用し、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見しました。
世界で初めてプラネタリウムが造られた時、ツァイス社製の投影機を使っていました。
グーグルアースの鮮やかな画像を映し出す人工衛星にはツァイス社製のレンズが使用されています。
そして、ハリウッド映画のカメラレンズにおいも、大きなシェアーを持っています。
カール・ツァイス社は、眼鏡レンズにおいても高い評価を得ています。
眼球や顔の骨格は、指紋と同じく一人一人作りが違います。
そのため、その人に合わせたメガネレンズが必要です。
カール・ツァイス社の眼鏡レンズはオーダーメイドすることができ、どの視点を見ても焦点を的確に合わせてくれるのです。
さらには、夜間ドライブのライトの眩しさを大幅軽減、軽く薄く、今までにないような付け心地を提供してくれると評価されています。
目次
カール・ツァイス社とは?
創業者カール・ツァイスは、1816年ドイツのヴァイマールで生まれます。
フリードリヒ・シラー大学に通い、数学、物理学、科学、光学、人類学、鉱物学などを学びます。
1846年、ツァイスは30歳でイェーナ(ドイツ東部)に工房を立ち上げました。
仕事は、科学機器と顕微鏡の製造やメンテナンスです。
当時はレンズが1つだけ付いた、解剖作業用の顕微鏡の製造でした。
特筆すべき4つの偉業
ツァイス社が170年間で、成し遂げてきた偉業の中で、特に言及すべき4つの項目があります。
科学と融合させて安定した産業形態を作り上げたこと。
レンズ研究を発展させて細菌学や自然科学の進歩につなげたこと。
プラネタリウムを発明し、天文学の実用的役割を果たしたこと。
そしてもう一つが、事業を社会貢献につなげたことです。
いかにして科学と産業の融合を図ったのか?
1857年に複数のレンズが装着された複式顕微鏡を世界で初めて製造します。
これでテューリンゲン州の産業博覧会で銀賞を受賞しました。
1861年には金賞を受賞し、ドイツ国内で最高級光学製品として高く評価されるようになります。
従業員20人をかかえ、仕事は軌道に乗っていました。
しかし、顕微鏡が完成するまでの作業時間が安定しないという課題を抱えていました。
当時は、一人一人の工員が一貫した組み立て作業を行いました。
それを職工長が経験をもとに、製品の最終チェックを手探りで行っていたのです。
そのため、職工長の作業の進み具合が売上に大きく関わっていました。
そこで、ツァイスはイェーナ大学で物理学の講師をしていたエルンスト・アッベに、
科学的根拠に基づいて、生産性を安定できないか相談したのです。
アッベは、イェーナ大学の物理学と数学の教授をしており、ツァイスの工場に実験用器具の製造を依頼することもありました。
アッベ自身も工場に通いつめて製造作業に携わることもありました。
アッベもまた、自然科学を産業に活かしたいという願望があり、共同作業に乗り出すことになったのです。
ツァイス創業二十年目
このアッベの起用により、ツァイスはさらに大きく発展することになります。
アッベは、まず製造作業を改革していきます。
アダム・スミスの「国富論」に記載された分業システムを取り入れました。
作業工程を工員で配分し、一人が一部の作業を繰り返し担当し、作業が完了した製品を次の工員に送ることで、作業効率は向上しました。
また、組み立てられた顕微鏡を職工長がチェックする体制にもメスを入れました。
全てのレンズに寸法・許容値を設定し、一定の範囲内であれば合格とする体制に改善しました。
これにより、レンズの注文が増えても、同じ二十人体制で対応することができました。
その上、顕微鏡の価格を25%もカットすることに成功するのです。
アッベはさらに、顕微鏡の照明装置や屈折計など、クオリティを上げる装置も発明します
ガラス博士オットー・ショット
ガラス博士と呼ばれるオットー・ショットと出会い、レンズの研究が飛躍的に進みます。
ショットの貢献により、ニーズに合わせた様々な種類の顕微鏡レンズを自由自在に造れるようになりました。
レンズの進歩により、コッホの炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見など生物学の進歩に大きく貢献するのです。
また、当時ドイツの天文学者は、ドイツ国民が天文学について疎いことを嘆いていました。
天文学を身近なものにし、教育を促進することはできないかと考えていました。
ツァイス工場の屋上に、世界で初めてのプラネタリウムを完成させ、大好評を得ることができたのです。
従業員が働くことの社会貢献
アッベは従業員が働くことを社会貢献につなげる努力も怠りませんでした。
創業者のツァイスが1888年に亡くなり,この時に跡を継いだアッベはツァイス財団を設立しました。
そして、ツァイス社の利潤がイェーナ大学とイェーナ市民の利益となるよう取り計らったのです。
また、アッベ主導のもと、画期的な労働条件を打ち立てていきました。
ドイツでは当時(1900年頃)、一日10~14時間労働が一般的でした。
そんな中、ツァイス社では一日8時間労働を実施します。
また、ほとんど取ることができなかった休暇も保証するようになります。
さらにアッベは退職金を導入します。
そして最低賃金保証制度、医療保険制度、企業年金制度をも確立していきました。
現代社会の労働条件から比べれば、まだまだ発展途上の規定だったとはいえ、
アッベは画期的な手段を次々と打ち出しました。
働く者たちの立場から労働環境を見直していったのです。
社員は働くことが社会貢献につながり、その喜びと使命を感じて、仕事により一層専念していきました。
まとめ
松下幸之助氏は、「使命を自覚させることの大切さ」を語っておられます。
松下幸之助氏も働くことを社会貢献につなげています。
それによって社員は誇りや使命感を持って仕事をしたのです。
それは社員にとっても、社会にとっても良いことである
創業者やそれを支えた者たちの絶え間ない研究と、社会貢献につなげていく努力によってツァイス社のレンズ技術は世界のトップレベルに達しています。
それで、日本を含めた世界中の国民に愛されるレンズ会社になったのです。
カール・ツァイス社の歩んできた歴史が、企業を大きく発展させていく大切な要素について物語っていると存じます。