型破りな天才建築家安藤忠雄が辛坊さんのラジオ番組に出演!

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週刊誌で話題の辛坊治郎氏、そのラジオ番組サンデーキッスのゲストが凄い。

世界的な天才建築家、型破りな安藤忠雄さんです。

そんな超有名な安藤忠雄さんですが神戸のラジオ局までお一人で来られました。

えー秘書もつけずに一人で、驚きです。

一人の方が何かと便利だといいます。

安藤氏の型破りな作品は使う人を感動させるといいます。

決して使い勝手がいいものではありませんが、心に響くものがあるのです。

生い立ち

安藤忠雄は1941年大阪府生まれです。

中学の時に一心不乱に作業に打ち込む大工さんの姿に直感的に心動かされたといいます。

彼が建築家を志しても、家庭は貧しく、学力も貧しい現実がありました。

そこで、京橋のボクシングジムに通い17歳でプロになってしまいました。

勢いと才能で1ヶ月でライセンスを獲得するのです。

一試合4万円の収入を得るためにプロになったのです。

そして初めての外国、タイでの試合に赴き地球を意識したそうです。

ボクシングで順風満帆に行くのかと思いきや、アッサリ辞めてしまいます。

理由はファイティング原田の練習を見て、才能の違いを痛感したからです。

とてもじゃ無いが、レベルが違うと思ったのです。

以後、一心不乱に建築の仕事に従事し、二級建築士、一級建築士を一発で合格します。

1979年には「住吉の長屋」で日本建築学会賞を受賞

1995年には“建築界のノーベル賞”とも言われるプリツカー賞を受賞します。

プリツカー賞は巨匠と言われる人が晩年に受賞するのが普通でした。

彼は54歳で受賞します。

彼のプロジェクト

直島ベネッセハウス(1992、香川)

ユネスコ瞑想空間(1995、パリ)やピューリッツァー美術館(2001、セントルイス)、

表参道ヒルズ(2006、東京)

など世界各地におよそ300くらいあります。

現在手掛けているものは外国で30件、日本で15件といいます。

アトリエ

安藤忠雄のアトリエは、大阪梅田駅近くの静かな住宅地にあります。

地上5階地下2階、打ち放しコンクリートのビルです。

静止した液体のように滑らかなコンクリートの壁面に、緊張感のある機能美が漲っている。

入口のドアに至るまで、余分な装飾は一切ありません。

日本の危機に思うこと

日本には、かつて極限まで勉学に勤しんだ男たちがいました。

今、日本人に求められるのは、そんな気持ちで生きてる人だと言います。

「日本は資源もエネルギーもない国です。

それがどうして現代史の奇跡といわれるような奇跡を2回も起こせたのか?」

それは人材があったからです。

1度目の奇跡

江戸時代末期の日本には、約三百の藩がありました。

その三百諸藩の教育が個性的だったと言います。

今のように全国一律の同じ教育ではなかったのです。

この個性的な教育が、好奇心の強い覚悟のある人間を生んだのです。

松下村塾の吉田松陰はペリーの黒船に衝撃を受け、23歳の時命懸けの密航を企てました。

吉田松陰は、世界を知らなければ日本の国に未来はないと思ったからです。

やむにやまれぬ気持ち(大和魂)に突き動かされたのでしょう。

大阪では、大村益次郎や橋本左内などの人材を生んだ、緒方洪庵の適塾がありました。

この人たちも寝る間も惜しんで勉強していました。

塾頭を務めた福沢諭吉は、2年間枕に頭をつけて寝たことがなかった。

座りながら寝たという、それくらい学問に打ち込んだのです。

そして、そういう人材があったからこそ、世界に誇る日本の明治時代が到来したといいます。

歴史を後から振り返れば、江戸時代が終わって明治の世の中になったのは、

夜が明けて朝になるのと同じくらい当たり前のことのように思ってしまいます。

放っておいても、自然にそうなったかもしれませんが、それは錯覚です。

時代というものは、人の手と意志で作るものです。

建築物と同じように釘の1本に至るまで、誰かが打たなければ新しい時代は開けない。

明治という時代は、二百数十年間も国を閉ざしていた平和な国が、

帝国主義の吹き荒れる19世紀の国際社会に放り込まれた時代です。

国の舵取りをひとつ間違えれば日本は消滅していました。

官民を問わず命懸けで時代を切り開き、日本という新しい国を作ったのです。

それが1度目の奇跡です。

2度目の奇跡

1945年の敗戦の時もこの遺伝子が開花したのです。

それは、あの敗戦の時に10代から20代の若者だった人たちです。

この人たちが目の前の世界を真剣に見、そして命懸けで生きてきました。

その結果、日本は焼け跡から立ち上がり、経済大国となったのです。

終戦当時、日本に来た欧米の外交官やビジネスマンは、誰もが日本は必ず立ち直ると言ってい

たそうです。

『大人たちは死に物狂いで働いている。子供たちの目は輝いている。だから日本は絶対に復活する』

サントリーの佐治さんもアサヒビールの樋口さんも、そういう時代に大人になった人たちです。

本田宗一郎さんも、ちょっと年齢は上だけど、やっぱり大きくいえば同じ世代です。

本田宗一郎さん

昔、頼まれて講演会をしたんです。

そしたら、私の講演を聴いてた本田さんが手を挙げる。

『面白い。僕も喋りたくなった』って。私の講演会なのに(笑)。

『安藤さん、一時間時間延ばせるか?』って聞くから、大丈夫ですって答えたら、

ほんとに自分が演壇に立って喋りはじめた。

そういう面白い人が、昔はたくさんいたのです。

今の日本人は、言われたことはやる。きっちりやります。

だけど、後はやらない。

本田宗一郎さんは、講演中に手を挙げて『僕にも喋らせろ』って(笑)。

笑い話じゃなくて、そういう人が、今求められてるんだと思う。

思いのある人、気持ちで生きてる人。それが滅びたら、日本は滅びるしかない。

まだ駆け出しだった頃に、私は大阪で彼らと出会いました。

思いの塊みたいなおじさんたちに出会えたことが、何より大きな財産だと言います。

住吉の長屋

〈住吉の長屋〉は安藤の初期の代表作です。

大阪住吉区の三軒長屋の真ん中を切り取って作った間口2間奥行き8間の住宅。

壁も天井も打ち放しのコンクリートで、開口部は入口1ヵ所しかない。

しかも建物を3等分し、真ん中を中庭にしてしまった。

そこは屋根がないので、雨の日は寝室からキッチンへと移動するのに傘が要る。

そんな型破りな設計です。

〈住吉の長屋〉で日本建築学会賞を受賞し、建築家として実質的なデビューを果たしました。

その1979年当時は賛否両論でした。

高く評価する人もいたが、酷評する人も少なくなかった。

『建築家よりも、この家に住む施主の勇気を讃えるべきだ』と評したという話もありました。

けれど安藤は、住む人の生活を考えずに、設計したわけではないのです。

住居とは何か、人が生活するとはどういうことかを、徹底的に考えて設計していたのです。

そして「住まうとは、時に厳しいものだ。私に設計を頼んだ以上、あなたも闘って住みこなす

覚悟をしてほしい」(『建築家 安藤忠雄』新潮社刊)

と、当時の安藤は設計を依頼してきたクライアントに言っていたといいます。

サントリーの佐治さん

安藤は、佐治敬三さんと知り合って7年目に建築家であると認識されます。

そして無名の安藤に美術館の設計を依頼するのです。

〈住吉の長屋〉に佐治を連れて行きました。

『狭くて、寒くて、不便だ』は、正直な感想だったと思います。

「それで話は終わりだと思っていたら、しばらくして佐治さんがふらりと私の事務所を訪ねてきて、

『あの住宅には勇気がある。そこが気に入った。美術館の設計、やっぱりお前に頼むわ』

と言われた。

だけど、当時は美術館みたいな大きな建築物をやったことがなかった。

それでもいいですか、と聞くと発破をかけられた。

『情けないこと言うな。責任はまあ俺が取るにしても、お前が取るにしても、

とにかく全力でやってみろ』ってね(笑)」

そして、完成したのが大阪の天保山にあるサントリーミュージアムです。

安藤はサントリーの敷地のみならず、隣接する大阪市の土地と、さらにその先の国の管轄下に

ある海岸線までを計画の中に取り込み、壮大で美しい建築を完成させます。

この建築が革新的な個人住宅の設計で世に出た安藤が、

巨大な公共建築の分野へと進出する端緒となりました。

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アサヒビールの樋口さん

「実を言うと、アサヒビールの樋口廣太郎さんが私の事務所を訪ねてきたのは、

ちょうどそのサントリーの仕事にかかっていた頃のことでした。

彼も突然ひとりで来た。面識も何もないのに。

佐治さんもそうだけど、ああいう人はだいたいひとりでいきなり来る(笑)。

誰やこのおっさんと思って『どなたですか?』って聞いたら

『いや、アサヒビールの樋口や』って。びっくりしますよ。

アサヒビールの社長が秘書も連れずに、私の事務所にひとりで飛び込んで来るんだから。

私が描いた中之島の中央公会堂の再生案を見て来たらしい。

『あれ面白いなあ』って言うわけです」

それは、安藤が一方的に立案した大阪の中之島にある中央公会堂の再生プロジェクトでした。

大正時代の建築で国の重要文化財でもある公会堂の外観と構造をそっくり残したまま、

その内側にコンクリート製の巨大な卵形の構造物を挿入し、ホールとして再生するというプランでした。

アーバンエッグと名づけたこのプロジェクトはもちろん採用されなかったのだが、

この壮大で美しいアイデアに心を動かされた人は少なくないといいます。

そのひとりが、住友銀行副頭取を務めた後にアサヒビール代表取締役社長に就任、

「スーパードライ」をヒットさせアサヒビール中興の祖といわれた樋口廣太郎でした。

「あれ面白いから。お前のこと気に入ったというわけです。

それで依頼されたのが、大山崎山荘美術館だったのです。

この人もすごい人です、いきなり来て、ポンとそんな大きな仕事の依頼をするんだから。

だけど、この時私はちょうどサントリーの美術館の設計をしている時期でした。

これは大変まずいことなんです。アサヒビールとサントリーはコンペティターだから。

だけど、佐治さんも樋口さんも気にしなかった。

事情を説明したら

『そんなことはまったく問題じゃない。自由にやれ。

気を使うことないから、思いきってやってくれ』

と彼らは言うわけですよ。

結局、サントリーもアサヒビールも、こういう自由な精神のもとに進んでいったのが、

あれだけ大きく成長できた秘密だと思う。

私は彼らと付き合わせてもらいながら、

本当の決断力とは何か、勇気とは何か、実行力は何かということを、

口先の言葉でなしに行動で勉強させてもらったんです」

ソニーの盛田さん

「ソニーの盛田昭夫さんもそういう人のひとりですね。

あの人と初めてお会いしたのは1988年、私がスペインのセビリア万国博の日本館の設計をす

ることになったのがきっかけです。

総合プロデューサーが堺屋太一さんで、盛田さんは日本館の政府代表だった。

『自由で大らかなものでいこう』という話になって、私が設計したのが、

地上30mの木造ワンルームのパビリオンだった。

だけど、スペインには木造建築に関する法律がなかった。

そんな巨大な木造建築は誰も見たことがないわけです。

スペイン側もかなり難色を示しました。

だけど『ないものだから作ろう』

って盛田さんは言うんです。

その発想がいいでしょう。

ないから作る価値があるって。

あるものを作るのは、簡単かもしれないけど面白くない。

世の中にないものを作り出すのはリスクもあるけれど、できた時の喜びは何倍も大きい。

ウォークマンもその発想から生まれたわけです。

30mの木造パビリオンも、盛田さんがいたから完成に漕ぎつけたんです。

つながり

彼らとは、仕事が継続してなくても、なんらかの形でつながっている。

だから、今回の大震災の育英資金も、そういう知り合いでやった。

いちいち頼みに行っていたのでは、時間がかかりすぎるから。連絡なしの事後承諾。

彼らはみんな日本の今後を考えてる人たちだから、

いちいち聞かなくてもいいだろうということでスタートした。

長い付き合いやから大丈夫なんです。

彼らの気持ちを知ってますから。

みんな、お互いにそれをわかってる。

何かを実現するために、自分の何もかもなげうって邁進する。

そういう人間が、人間社会を引っ張っていくんです」

日本の資源は人

「日本という国の唯一の資源だった人間力がどんどん失われている。

日本はものづくり国家だといわれていたけれど、ものを作るのには人間が要るんです。

その人間が居ない。

手先が器用で、繊細で、ものを見る目が確かだっていわれてきたけど、

今の日本人はもはやそれほど器用でもないし、繊細でもない。

子供は鉛筆も削れないんだから。

ものづくりには不可欠な忍耐力もなくなっている。

日本人はもう昔の日本人ではなくなってるんです。

そのことに早く気づかないといけない。

何が何でも、我々はもう1回奇跡を起こさなきゃいけないわけじゃないですか。

そしたら、ここでもう1回、本気で気合を入れ直さなきゃ、

人間の力を取り戻さなければ、日本は本当に沈んでしまいますよ。

彼らのような日本人がいたのだということを、僕は声を大にして伝えたい。

今の子供たちの中から、彼らのような人間が育ってくるようにするにはどうしたらいいか。

どんな世の中にしなきゃいけないか。

そのことを考えて、そういう世の中を作っていくことが、私たち大人の責任なんです」

メッセージ

安藤の建築には、はっきりしたメッセージがある。

文字に書かなくても、彼の建築物の随所にそのメッセージが書き込まれている。

それは、自然とともに生きてこそ、人は幸せに生きられるという哲学だ。

建物は人間が快適な生活を営むために必要なものだけれど、過度に快適であってはいけない。

なぜならそういう建築物は五感を弱らせ、生きる喜びを矮小化させるものだからだ。

頬を吹く冷たい風、背中を濡らす雨の雫、真上から差し込む太陽の光……。

普通の建築物が遮断してしまう、必ずしも快適ではない自然の要素までも設計の中に取り込む

のが安藤の作る建物だ。

怠け者の大人は、もしかしたらそれを不快に感じるかもしれない。

けれど、それこそが子供の目を輝かせるために必要なものなのだ。

辛坊治郎セクハラバッシング

東京人は大阪を嫌うのはなぜか?

東京人にとって個性的な関西人は邪魔な存在なのだ。

東大や京大の優秀な人は東京に集まる。

東京の会社は一流の人たちの合議制で動いていく。

売上と利益に管理された社会である、しかし会社はそんなものではない。

関西の財界はカスの集まりでよくやっている。(安藤さんが言っている)

人間的で温かく一生懸命やっている。そして覚悟がある。

辛坊治郎バッシングにも根底には東京の傲慢さが隠されている気がする。

卑怯な手口で権力を振りかざすマスコミ報道

ただ関西の人は違う反応をする。

辛坊さん人気が出てええな、全国に名前が行き届いたで〜

だだ文春砲は第三弾を準備するはずだと辛坊さんは言う。

それが文芸春秋のやり方だそうだ。

週刊誌はことの善悪はどうでも良い、売れるネタであれば良いのだ。

辛坊さんはこれを利用して関東でバズろうとしているのではないかとの疑念もある。

テレビマンとして裏も表も知っていて、時と場所を弁えているのである。

視聴率を取るためなら、いっちょかますくらいの事はやるはず。

それだけの覚悟と根性はあると思いたい、

どう切り抜けるのか見るのも楽しいですよね。

安藤さんもこの話題に触れようとしたが、辛坊さんご本人が差し止めた。

まとめ

うまくいかないことはいっぱいある。

しかし、失敗を恐れなおようにしている。

大手術をして内臓の五つがない体で、生きているのが不思議だそうだ。

朝食はしっかり食べる、一日一万歩歩く、お昼に一時間休む

生活を自分に合わせて生きていく

一心不乱、直感、人間的に暖かいが根底にある。

子供たちに後世を託すこども図書館に期待をしている。

大阪市中之島に自らの設計による図書館「こども本の森 中之島」を建設し、市へ寄付する計画を2017年に発表した。

自らも費用を負担するとともに、大阪財界の企業を回って寄付を募っている。

「新聞や本を読まない子が増えており、活字文化の大切さを見直したい」

「お金持っては死ねない」

との信念に基づく活動であると話している。

こども本の森 中之島は2020年3月1日に開館の運びとなります。

そして、神戸にも「こども図書館神戸(仮称)」を計画中です。

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