山崎製パン、社長は洗礼を受けたキリスト教徒〜使命を全うするのみ〜

自己啓発
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2024年の元旦の夕刻に起きた令和6年能登半島地震は、日本国民だけでなく世界中を震撼させるものでした。一瞬で家族を失い、家や大切なものを失った現地の人々の境遇や心中を思うと、胸が張り裂ける思いです。今も捜索活動が続き、避難した人々への、食料を始めとする物資の供給が急務となっています。

1月3日、現地の惨状を伝えるメディアの映像が続く中、ふと広い公民館のような場所が映りました。床に積み上げられた大量のパンのケース。そして自衛隊員らが、トラックから手作業で、次々と追加のパンのケースを運び出しています。国から要請を受けた山崎製パンが、どこよりも先に緊急物資として大量のパンやおにぎり、水等を届けていたのでした。

国の大事の際に、全社一丸となって、パンをはじめとした救援物資を最速で届け続ける、山崎製パン株式会とはどんな会社なのでしょうか。

山崎製パンはどんな会社?

山崎製パンは、日本国内最大の製パン企業で、パンの国内シェアは、約4割になります。1948年、戦後食糧難の中、飯島藤十郎氏が、千葉県市川市に小さな製パン所を開業したのが始まりでした。1948年に飯島は東台農事実行組合でもパン製造を営んでいたため、食糧管理制度下で製パン業が厳しく統制されており「飯島」の名前では認可が下りませんでした。そこで、未亡人となっていた妹の嫁ぎ先の姓である「山崎」で認可を得て商号を山崎としました。

藤十郎氏は、2年半奉公した新宿中村屋社主の「良くて安い品を自分で作って売る」をそのまま実践し、その誠実さで、製パン所は創業当時から大繁盛でした。早くから、和洋菓子の製造販売や機械設備の導入にも取り組みます。国内で洋食が普及する中、パン食は徐々に広まり、山崎製パンは20年をかけて、大阪、名古屋、福岡、東北に工場を設立し、全国進出していきました。

藤十郎氏の息子である延浩氏は64年、一橋大学を卒業すると、山崎製パンに入社します。会社は順調に発展していきましたが、69年に藤十郎氏が体調を崩して休養し、実弟が経営に携わると、社内は混乱と対立が始まります。4年が経ち、藤十郎氏の病状が回復しても、実弟は「社主はまだ病気だ」と言い張り、両者の主導権争いが繰り広げられました。

思い詰めた藤十郎氏は、新宿中村屋の社主の勧めで教会へ通い始めます。そして73年の7月、藤十郎夫妻と延浩氏は、揃って洗礼を受けました。
ところが、このわずか11日後に、自社の国内最大で最新鋭だった武蔵野工場が、失火により全焼してしまいました。

普通の人であれば、突然降り掛かった災難を嘆くだけだったかもしれません。しかし、藤十郎氏は、この火災を、「自分本意に仕事を進めてきたことに対する戒め」と受け止め、今後は神の御心にかなう会社に生まれ変わろう、と決意したのでした。この藤十郎氏の決意から、何かが変わりました。

この火災では、奇跡的に人的被害はなかったものの、「大手スーパー各社などから注文を受けた大量の商品が生産・供給できなくなる」という、企業存亡の危機に直面します。
そこで藤十郎氏は、速やかに武蔵野工場の従業員を他の工場に分散し、武蔵野工場分の生産をする体制を取りました。氏の必死の思いに、職員は皆、応えてくれました。その結果、大工場が全焼したにも拘わらず、3日目から代替生産を軌道に乗せ、通常通りの受注と供給ができるようになったのでした。

このことを機に、藤十郎氏は、山崎製パンの使命を「取引先・販売店から注文があった品は、どんな試練や困難に出会っても、良品廉価・顧客本位の精神で製造し、お取引先を通してお客様に提供すること」と強く認識したのです。

やがて内紛は、藤十郎氏と実弟がともに代表を退き、延浩氏が社長に就任したことで幕を引きました。

信仰は理性を超える

飯島親子3人がプロテスタント教会で洗礼を受けたのは73年7月。当時、山崎製パンの経営の主導権を巡って、創業者の藤十郎と、その弟・一郎が骨肉の争いを演じていました。30代前半だった飯島は、取締役として劣勢だった父親を支え、四面楚歌の社内を立ち回りました。

取引先や金融機関まで巻き込んだ騒動が収束したのが79年。一郎は子会社・ヤマザキナビスコに追われ、藤十郎も退く。その「痛み分け」の結果、37歳という若さの飯島延浩氏に、社長の座が突如転がり込んできました。

頼りの父は病を経て力を失い、誰1人として共闘する者がない社内です。社長の肩書を得てもそれは変わらなかったはずです。その重圧は想像に難くありません。

しかし、飯島延浩氏は当時のことを次のように回顧しています。

「父と父の秘書だけが味方で、本社内ではあとはみんな反対側でしたので、非常に緊張し、戦っているような感じでした。しかし…叔父(一郎)も70%は水でできていますし、私も70%は水でできています。…お互いに対立していながらも一つの共通のもの、神の愛というものを持っているように感じたのです。…叔父の呼吸の中に含まれている水を私も吸っていることもあると感じたとき、対立していることがばからしくなりました」

眼前で繰り広げられる血族同士の罵り合いを前に、それぞれが「70%が水」という理由で「対立がばからしくなる」というのは、理性ではなく、信仰というものの働きによるとしか言いようがありません。

藤十郎氏の意を引き継ぐ延浩氏が社長に就任してから、山崎製パンは大きく躍進し、1000億円台に過ぎなかった売上は急増して、洋菓子大手の不二家や菓子の東ハト、ヤマザキ物流ほか物流部門などの多くの子会社を抱え、連結売上高1兆円規模の食品コンツェルンに拡大します。

延浩氏は、山崎製パンが急成長しても奢ることなく、武蔵野工場が全焼した時に、父の藤十郎氏と共有した思いを忘れることはありませんでした。この困難を経て氏は、山崎製パンの会社としての使命を自問し続けます。

そして86年、関西ヤマザキを吸収合併して国内製パン業界でシェア4割に達すると、農林水産省の意向も受け、

「食品企業として被災地への緊急食糧の供給は責務」

「被災地へ調理の必要がなく、そのまま食べられるパンやおにぎりなどの緊急食糧を供給することは食品企業の当社の社会的使命」

と標榜するようになりました。

それが最初に大きく生かされたのが、95年の阪神・淡路大震災でした。震災直後、山崎製パンは、兵庫県と神戸市から食料供給の要請を受けて、吹田市と松原市にある自社工場の稼働を、全社を挙げてバックアップします。地震の翌日には、数千人規模の避難所に配れるだけのパンを用意。そして1月末までに100万個の寄付分を含む計270万個の菓子パンを、自衛隊の輸送協力を得ながら被災地に供給しました。2月以降も支援を続け、4月末までにパン1155万個、弁当等524万食の緊急食糧を避難所に供給しました。山崎製パンは、他にも新潟県中越地震、熊本地震などの際にも素早い対応で支援物資を届けました。ちなみに、セブンイレブンの対応も早かったようですね。

延浩氏が社長、「神の軍」と共にあれ

長く業界に君臨する「製パン王」と称される延浩社長は、敬虔なキリスト教信者でもあります。「神」しか映らぬ目、聞く人を戸惑わせる信仰の言葉。しかし情熱的な宗教家の顔の下に、したたかな経営者の顔を覗かせると評されています。

飯島延浩氏が経営の主導権を握ったことを藤十郎や周辺は喜んだといいます。だが、延浩氏の脳裏には聖書の『ヤコブの手紙』4章の一節が浮かんだといいます。

「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみ、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます」

延浩氏は、周囲が勝利の美酒に酔う中で、独り「どうすれば苦しみ、悲しめるか」を考えました。

「身内に囲まれていればどこを探したって悲しみのかけらもない。だけど、それはぱたーんと垣根を倒して、会社全体を見ると、(社内政治の)戦いに破れた連中がみんな傷ついていた。それを追い込んでいったら、また一寸の虫にも五分の魂とやり出しかねない。だからこの人たちを助けてやろうと。その人たちの悲しみが自分の悲しみとしたら、一遍に喜びが飛んでいっちゃった」

信仰ゆえの寛大さにも見えますが、同時に、社長の座を射止めたものの、「父と父の秘書」以外に味方のなかった延浩氏にとって、政治的敗者たちの「罪」を許して取り込まなければ会社を動かすことができなかったのではないか、とも見える。いつ敗者たちが「一寸の虫にも五分の魂」で牙をむくか分からないのだから。病魔に苦しむ実父を追い込んだ政敵たちを、理性では許すことはできない。だが、「理性を超えた者の声に従った」とすれば、許すことができたのでしょう。

敗者には寛容でも、敵にはひるまない。延浩氏はよく「エリシャの信仰」を語ります。

朝起きると、敵が町を包囲している。若者は慌てるが、預言者・エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言って主に祈る。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」。若者が目を見開いて見渡すと、火の馬と戦車が敵軍をさらに取り巻いて山に満ちていた。

目に見える敵に囲まれていても、見えない者には見えない「神の軍」が自らとともにある。だから、目に見える現実の敵を恐れない、いや恐れる必要がないのです。

社長就任後、延浩氏は経営方針の対立で、1人の役員を解任しようと試みました。しかし解任される役員は巻き返し工作を図り、役員会では反対多数で否決されてしまいました。ところが延浩氏は譲りません。「私の意見が聞けないなら社長を辞めさせてくれ」と言い張って、結局、思い通りに解任してしまったのです。

延浩氏はのちに、「罵られたり、悪口雑言を言われたりと、厳しいように思うかもしれませんが、心の中に主イエス・キリストにある聖霊の守りがあって全然動揺しない」と述懐しています。

「信仰」を後ろ盾に一歩も引かない。社内の「敵」に対するこうした姿勢は、PB(プライベートブランド)や物流共同化などでメーカーの利益の源泉を奪おうとする小売りや同業他社など、社外の「敵」に対しても同じです。

一方で延浩氏は、自ら主宰する聖書の勉強会では、経営者としての経験を交えて語ります。「(牧師の)先生は仕事の実態というのをあまりよく分かっていらっしゃらない」と、理性が支配すべき経営の場においては信仰で語ろうとし、信仰が支配すべき教会では経営の言葉で語ろうとする。それぞれの場において言葉が異質であるがゆえに、その響きは反論しがたい強さを宿すといいます。

山崎製パンの中堅社員には「敬虔に過ぎるクリスチャンが経営に宗教を取り入れて混同している」と漏らす者もいます。だが、経営と宗教を混同する熱烈な信者と言うほどに、延浩氏は単純ではない。

その証拠に、延浩氏は2つの鞄を使い分けている。一方は、キリスト教徒としての延浩氏が手にする鞄、もう一方は、企業経営者としての延浩氏が手にする鞄。多少、越境させることはあっても、決して混用することはありません。

経営者としての鞄に入っているもの

延浩氏の生まれは1941年です。時間を惜しんで働き続けた父・藤十郎は多忙を極め、あまり自宅で顔を合わせることがなかった。長じて一橋大学に進み、産業革命期の英国・ニューカッスルで栄えた石炭産業の盛衰について学びました。

「その頃は日本中で新しい事業をみんな始めた。産業革命期の英国は、戦後の日本と同じだと思った」

ニューカッスルの炭鉱の強みは、港に近く海路で石炭を運べたことだ。いち早く海運の体制を構築して物流コストで内陸部の炭鉱を圧倒し、寡占体制を敷いた。しかしやがて内陸部の炭鉱は水路を引いて対抗し、ニューカッスルの寡占は崩れていく。さらに時代が下って蒸気機関が発明されると、水路に頼っていた炭鉱は鉄道への乗り換えに遅れ、やはり駆逐されていってしまった。

寡占体制を形成できた要因は新たな技術。しかし寡占体制が崩壊した要因もまた、技術でした。

父・藤十郎の事業と重なって見えた。米飯からパン食へと日本人のライフスタイルが変化していく中で、製パン業界は急成長を続けていた。そんな時代の雰囲気を物語る一葉の写真がある。中堅社員を集めた研修で、熱弁を振るう父・藤十郎。その背後の垂れ幕には、黒々とした墨文字で「為さずば、帰らず、食べず、眠らない」とある。日本中が成長を謳歌するような時代、しかし学生だった延浩氏が見据えていたのは、そうした不眠不休の努力によって形成された寡占がいずれ崩壊する姿でした。

従業員が「眠らずに」努力しても、イノベーションが起こって競争の次元が変われば駆逐される。社長に就任した当時、既にパン事業は国内で圧倒的なシェアを握りつつあった。これに頼り続けては、いずれ別のイノベーターに駆逐されてしまうのではないか。

「過去の山崎製パン」を駆逐する道

延浩氏が出した答えは、自らがイノベーターとなり、「過去の山崎製パン」を駆逐する道でした。社長就任後、コンビニ「ヤマザキデイリーストアー」事業、冷凍生地を使ったベーカリー喫茶「ヴィ・ド・フランス」事業など既存事業以外の領域に次々と手を広げた。近年では東ハトや不二家に資本参加するなど製菓事業にも力を入れています。

山崎製パンが独自配送にこだわる原点も、「寡占崩壊論」の仮説にあります。英国の石炭産業の命運は、海路、水路、鉄道と時代の趨勢とともにパラダイムが移り変わった「物流」が握っていた。飲料や食品メーカーの多くが、コンビニなど流通業界の共同配送に組み込まれ、物流の主導権を奪われる中、飯島は独自配送を手離そうとしませんでた。

延浩氏が手にする2つの鞄。一方には「聖書」が、もう一方には経営に関する様々な情報を書き込んだ厚手の「大学ノート」が入っている。つまり、信仰と理性。信仰では見通せない経営の未来は理性で見据え、理性で打ち勝てないものと対峙する時には信仰に力を得る。その両立が奇異にも見えるのは、延浩氏が住む国がこの日本だからなのかも知れません。

延浩氏は、親交のあった経営学の泰斗、故ピーター・ドラッカーに、経営の体験を土台に据えた聖書の解釈を披露したことがある。ドラッカーは大いに関心を示し「それは必ず日本で出版なさい」と助言したという。

「欧米では当たり前なんだよ。土台として(キリスト教の精神風土を)社会全体が共有しているんだから」信仰の情熱に覆われた先にある、冷徹な理性。「どんな事業でもね、10年は持たないよ」 そう語る時の目に、信仰を語る時の陶然はないのです。

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