岡山県瀬戸内市。田園風景が広がる、のどかな町に、全国から人が集まる巨大な駄菓子店があります。
その名も、日本一のだがし売場。
岡山駅から車で約40分。人口およそ3万6000人の町にありながら、年間100万人もの人が訪れる人気スポットです。
店の広さは約750坪。これはテニスコート約10面分にもなる広さで、店内には全国から集められた約5000種類の駄菓子や文房具が並んでいます。
休日になると、500台収容の駐車場はすぐ満車になります。県外ナンバーの車も多く、子どもだけでなく、大人も夢中になって「大人買い」を楽しんでいます。
この巨大な駄菓子売場を運営しているのが、株式会社大町です。そして、この売場を作り上げた人物が、3代目社長の秋山秀行氏でした。
祖母が始めた小さな卸売業
株式会社大町の創業は1952年。
戦争で夫を亡くした祖母が、家族を支えるために岡山市で食品卸売業を始めたのがスタートでした。
1958年生まれの秋山氏は、幼い頃から祖母に、
「お前が大町を継ぐんだ」
と言われて育ちます。
大学卒業後、秋山氏は京都の老舗百貨店に入社。店頭販売だけでなく、訪問販売、外商、通販など、さまざまな小売の現場を経験しました。
その後1985年、家業の業績悪化を知り、大町へ入社します。
経営の失敗続きだった時代
しかし、百貨店で販売経験はあっても、経営の知識はほとんどありませんでした。
売上を伸ばそうとして、社員に厳しい営業ノルマを課したり、人件費削減のために解雇を進めたりもしました。
ところが、会社の業績は一向に良くなりません。
さらに1995年、会社は事業拡大のため、現在の瀬戸内市へ移転します。
しかし、その直後に近隣で大規模な集団食中毒事件が発生。会社も影響を受け、経営は悪化していきました。
その後も、産地偽装問題や賞味期限偽装問題など、食品業界を揺るがす事件が続き、会社は何度も苦境に立たされます。
巨大倉庫が「負の遺産」に
さらに追い打ちをかけたのが、大型物流倉庫への投資でした。
銀行から多額の融資を受け、中四国最大級の配送センターを建設したのです。
当初は大手企業との取引もあり、順調に稼働していました。
ところが、その後、取引先企業が自前で物流設備を持ち始めます。
すると、大町の倉庫を使う会社は減少。
広大な倉庫だけが残り、借金だけが重くのしかかる状況になってしまいました。
秋山氏は、
「どうしてこんなことになったのか」
と、巨大な倉庫を前に呆然と立ち尽くしたといいます。
入社以来、挑戦することが次々失敗し、社員からの信頼も失われていました。
「子どもが喜ぶことをやろう」
絶望の中で、秋山氏は考えます。
「これから何をすればいいのか」
そして、ある結論にたどり着きました。
「子どもが喜ぶ、楽しいことだけをやろう」
この時、秋山氏が思い出したのが、以前から開催していた「お菓子祭り」でした。
食品ロスへの疑問から始まった「お菓子祭り」
食品業界には、「3分の1ルール」と呼ばれる慣習があります。
これは、賞味期限の3分の1を過ぎた食品は、スーパーなどに納品しにくくなるという業界ルールです。
まだ食べられるにもかかわらず、返品できない商品は廃棄されてしまうこともあります。
秋山氏は、以前からこの仕組みに疑問を感じていました。
そこで、メーカーや問屋の処分予定商品を買い取り、「お菓子祭り」で格安販売を始めたのです。
倉庫の一角に「もったいない広場」を作り、お得なお菓子を並べました。
イベント開催前には、自分たちでチラシを配り、高速道路のインターチェンジ近くには手作り看板も設置しました。
最初は年1回だったイベントも、人気が高まり、春と秋の年2回開催へと発展します。
やがて、
「大町は知らないけど、お菓子祭りは知っている」
という人が増えていきました。
毎回5000人以上が訪れる人気イベントになっていったのです。
「この祭りを毎日やればいい」
そんなある日、秋山氏は思いつきます。
「このお菓子祭りを、毎日やればいいんじゃないか」
しかし、社員たちは猛反対しました。
「年2回だから人が来るんです」
「毎日やっても絶対に失敗します」
社員たちは冷ややかでした。
中には、
「勝手にやってください」
と突き放す人までいたそうです。
たった5万円で始めた駄菓子店
それでも秋山氏は諦めませんでした。
協力者は、パートの女性1人だけ。
2011年4月、倉庫の約20坪のスペースを使い、「日本一のだがし売場」がスタートします。
しかも、設備投資はたった5万円。
廃材を使って棚を作り、できる限りお金をかけずに始めました。
ところが、オープン初日の来店客はわずか5人。
売上はたった2000円でした。
その後1〜2年は、売上ゼロの日もあったといいます。
子どもたちとの交流が転機になる
お客が来ない日、秋山氏は暇を持て余していました。
平日の店内はガラガラ。
いつしか店は、近所の子どもたちの遊び場のようになっていきます。
秋山氏は、遊びに来た子どもたちとキャッチボールをしたり、賞味期限が近いお菓子を無料で配ったりしていました。
すると、
「無料でお菓子がもらえる店がある」
という噂が、子どもたちの間で広がります。
少しずつ、子どもが集まり始めたのです。
しかし、この頃もまだ利益はほとんどありませんでした。
それでも秋山氏は、子どもたちとの交流を続けます。
そして、この交流こそが、後に「日本一のだがし売場」の未来を大きく変えることになるのでした。


