山口県防府市の高台にどっしりと鎮座する、防府天満宮。
「日本で最初に創建された天神さま」「日本三大(日本三天)天神のひとつ」と言われる、とても格式の高い神社です。
では、その防府天満宮は誰が、そしてどんな理由で創建したのか。その天満宮の来歴を知って合格祈願すれば、きっと天神様も絶大な功徳を与えてくれると思いますよ。
1. 時代背景:菅原道真と「昌泰の変」
時は平安時代中期。学者貴族として名高い菅原道真(すがわらのみちざね)は、宇多天皇・醍醐天皇に重用され、右大臣にまで出世します。
しかし、時の権力者・左大臣藤原時平の讒言により、「昌泰の変」と呼ばれる事件が起こり、道真は都を追われ、遥か九州の大宰府へ左遷されてしまいました。
このとき、道真はすでに50代後半。
都から遠く離れた大宰府行きは、「事実上の島流し」のようなものでした。
2. 防府との出会い:勝間の浦に寄港
京から船で西へ向かう道中、道真は周防国(現在の山口県東部)に立ち寄ります。
ここが、のちに防府天満宮が建つことになる勝間の浦(かつまのうら)です。
このとき、周防国には土師(はじ)氏という一族が国司(地方行政の長)として赴任していました。
土師氏は、のちに「菅原」と改姓する氏族と同族とされており、道真とは血筋を同じくする親戚筋であるようです。
縁者を頼って寄港した勝間の浦で、道真はこんな言葉を残したと伝えられています。
この地は、まだ帝(みかど)のいらっしゃる都と地続きである。
願わくは、この松崎の地に居を構え、「無実の知らせ」を待っていたい。
しかし、その願いは叶わず、道真はそのまま大宰府へ向かい、やがてその地で無念のうちに生涯を閉じることになります。
3. 道真の死と、不思議な光
延喜3年(903年)2月25日、菅原道真は大宰府で薨去(こうきょ)しました。
その同じ日、勝間の浦と酒垂山(さかたりやま/現在の天神山)のあたりで、不思議な現象が起こったと伝えられています。
- 西の空から五色の光が差し込む
- 酒垂山の上空に紫色の瑞雲がたなびいた
これを見た国司や里人たちは、
「あの日、この地を気に入っておられた道真公の御霊が、
光と雲となってこの地へ戻ってこられたに違いない」
と悟ったのだそうです。
4. 誰が創建した?──周防国司・土師信貞と「松崎の社」
ここでようやく本題です。「誰が防府天満宮を創建したのか?」
複数の史料・伝承を総合すると、創建の中心人物は
周防国司・土師信貞(はじ の のぶさだ)
とされています。
- 道真と同族の土師氏であり、周防国の国司
- 道真の死を知り、勝間の浦に現れた神光・瑞雲を「御霊の帰還」と受け止める
- 翌年、延喜4年(904年)に、道真が「ここに住まいを構えたい」と願った松崎の地に社を建立
この社が、もともとの名前で「松崎の社」、のちの防府天満宮です。
また、神社の大宮司家である武光(たけみつ)家には、
- 創建者・土師信貞の次男、土師武光が大宮司家の祖であるという家伝が残っており、創建が土師一族によるものだったことを裏づけています。
5. 創建の「理由」:怨霊鎮めと、無実を晴らす祈り
では、どうして彼らは急いで社を建てたのでしょうか。
理由は大きく分けて三つあります。
理由1:道真公の「願いの地」だったから
道真自身が、「できることならここに住まいを構えたい」と願った地が松崎でした。
土師信貞たちはその言葉を覚えており、「この場所こそ、御霊の“居”を構えるのにふさわしい」と考えたのです。
理由2:不思議な光を「御霊の帰還」と受け止めた
西の空からの神光と酒垂山の瑞雲。
こうした現象は、当時の人々にとって神や霊の意思表示だと理解されていました。
「道真公の御霊が、本当にこの地に戻ってこられた」
そう確信した国司や里人たちは、その思いに応えるように社を建ててお祀りしたのです。
理由3:怨霊を鎮め、国を守るため

道真の死後、都では
- 清涼殿への落雷
- 貴族の急死
- 天候不順や疫病
などが相次ぎ、これらは「道真の祟り」として恐れられました。
そのため各地で「御霊を慰め、国を守るための社」が相次いで建てられます。
防府はその中でも、道真本人が「ここに居たい」と願い、さらに御霊が光となって戻ってきたと考えられた、特別な場所でした。
こうして延喜4年(904年)、「日本で最初の天満宮」とされる防府天満宮が誕生します。
6. その後の展開:100年越しに届いた「無実の知らせ」
創建から約100年後の寛弘元年(1004年)。
一条天皇の勅使が防府に下向し、道真の御霊を慰める「勅使降祭」が行われました。
このとき、ついに朝廷から正式に
「道真公は無実であった」
という「無実の知らせ」が奏上されたと伝えられています。
この勅使降祭こそが、現在も続く御神幸祭(裸坊祭)の起源です。
防府の人々は、道真の無念と名誉回復の歴史を、祭りという形で今も受け継いでいるわけですね。
7. 創建ストーリーざっくり年表
- 昌泰4年(901) 藤原時平の讒言で、菅原道真が大宰府へ左遷
- 同年 道真、西下の途中で周防国・勝間の浦に寄港し、「ここに住まいを構えたい」と語る
- 延喜3年(903)2月25日 道真、大宰府で薨去/同日、勝間の浦に神光・酒垂山に瑞雲が現れる
- 延喜4年(904) 周防国司・土師信貞らが、松崎の地に「松崎の社」を創建(現在の防府天満宮)
- 寛弘元年(1004) 一条天皇の勅使が下向、「無実の知らせ」が奏上され、勅使降祭(御神幸祭の起源)が行われる
8. まとめ:防府天満宮の「創建の意味」
あらためて、防府天満宮の創建を一言でまとめると──
- 創建した人:周防国司・土師信貞を中心とする土師一族と、国司・里人たち
- 創建の年:延喜4年(904年)
- 創建の理由:
- 道真公が「ここに住みたい」と願ったゆかりの地だったから
- 死の当日に神光と瑞雲が現れ、「御霊の帰還」と受け止められたから
- 怨霊を鎮め、無実を晴らすことを願う祈りの場として必要とされたから
つまり防府天満宮は、
「無実の学者・菅原道真の魂を迎え入れ、その名誉回復を願い続けてきた、日本最初の天神さま」
と言えるでしょう。

