熱田神宮は尾張のパワースポット!「熱田神宮 神様 いない」のキーワードの真実は?

神事
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熱田神宮は尾張地方で有名なパワースポットです。織田信長や徳川家康にも深い縁を持つ東海地方を代表するお宮です。日本武尊の草薙の剣をご神体とする、古い歴史を持つ神社なのです。しかし、「熱田神宮 神様 いない」のキーワードが目に飛び込んできました。まさか、なんてこと書いてあるんだと思い、よく読んでみると、お札の話でした。

神棚に祀る、熱田神宮のお札を毎年決まった所で頂いているのですが、たまたま、今回は別の所で頂きました。そしたら、その熱田のお札に少し違和感がありました。

その方が霊能の先生といわれる方に観てもらうと「仕事をしていない」とのことでした。

真偽のことは別にして、「仕事をしていない」とは面白い表現だなと感心しました。

仕事をしていない=神気が入っていない、から神様が居ないになっているようです。

日本の神様とは?

大祓祝詞にある様に「天津神国津神八百万の神々たち〜」が日本の神様です。古事記に出てくる神々で、国譲り以降は天津神と国津神に大別されます。「八百万の神々たち」は言葉の通りあらゆるものに神性が宿っているということでしょう。

天津神は高天原から降りてきた天孫族といわれ、皇室の先祖となります。国津神は天孫族に国譲りをするまで地上を支配していた出雲族となります。

 

熱田の神様とは?

熱田神宮の御祭神は「熱田大神(あつたおおかみ)」と申し上げます。三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御神体とする神様です。

相殿神として天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀姫命、健稲種命の5柱の神です。

草薙神剣は天叢雲剣ともいい、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治し、その尾っぽから出てきた剣を天照大御神に献上したものです。

それを天孫降臨のおり、孫である瓊瓊杵尊に授けた三種の神器の一つです。

天叢雲剣の変遷

素戔嗚尊から天照大神に、そして天叢雲剣は天孫降臨で瓊瓊杵尊に授けられました。天皇を象徴する神器として長らく天皇とともに皇居にありました。ある時、神意でお祀りする場所を、倭姫が諸国を巡回し、最終的に伊勢に移されました。これが伊勢神宮の始まりとなります。

日本武尊は父親である天皇より東の国を平定するように勅命を受けます。東征に伴い叔母である倭姫のもとを訪れた時に、肌身離さず持っておくようにと、天叢雲の剣を授かったのです。

この時点ではまだ天叢雲剣ですが、日本武尊が東征し駿河国に至った時です。国作りに裏切られ、草原に火を放たれます。その火を薙ぎ払ったいわれから、草原の火を薙ぎ払った剣、草薙神剣と云われる様になりました。

尾張に帰り、日本武尊は草薙神剣をお后である宮簀姫に預け、伊吹山へ向かいます。そこで白猪を眷属だと審神(さにわ)を誤り、伊吹山の神の毒気に当たって亡くなります。

悲しみの宮簀姫が形見の剣を大切にお祀りしたのが熱田神宮の始まりです。天智天皇の時代に二度盗難に遭いますが、取り戻され皇居に置かれました。天武天皇の病を境に熱田神宮に戻され現在に至っています。

熱田神宮の功徳とは?

熱田神宮の功徳なのですが、大抵のことは叶えられると存じます。問題は、神様がその気になるかどうかで功徳は違ったものになる様です。

御成敗式目に「神は人の敬により威を増し、人は神の徳により運を添う」とあります。(神さまを敬う人の純粋な真心にふれ、神さまのご威光はさらに輝きを増し
神さまの広き厚きご神徳のご加護で、人は導かれ運を開く)

神さまと人とは一方通行ではなくお互いがお互いを高めあう存在であると言っています。熱田神宮特有の功徳を知りたいときはどうすれば良いのでしょうか?それは御祭神の成り立ちを顧みれば推察できるそうです。

例えば、日本武尊ですが、日本の古代史においてヒーローですから、日本武尊を御祭神とする神社はヒーローに導く功徳をお持ちの筈ですよね。(笑)

お后もたくさんいたようですので、モテるのでしょう。父である天皇からは苦難を与えられますが、乗り越えていきます。苦難を乗り越えて成功していくのでしょう。

草薙神剣ですが、天照大神の光明をバックに受けていますので、災いを払ってくれるはずです。また、二度盗難に遭いますが、無事に戻ってきていますので、無くなった大切のものが帰ってくるかも。

戦国時代を平定し、全国統一をなした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らは熱田神宮を信仰していたようです。特に徳川家康は母方の縁が深いですね。

それらを考え合わせると、天下を統一させる功徳があるといえますよね。例えて言えばトヨタとかパチンコ業界などです。剣の意思で大業を成し遂げさせるのが熱田大神の功徳と言えると思いませんか?

まとめ

熱田神宮に神はいるのかどうかは、信じる信じないの問題です。まず信じて証が有るかどうか、体験しないと実感できないものです。他人は関係ありません、本人が感じるかどうか、信じるか否かですね。

何らかの神秘体験は誰にでも有るそうですが、実感しているかどうかです。信じている人は深く感動し魂が震える感動を覚えるでしょう。信じない人は、意識でブロックして何も感じないそうです。

神社のお札に関しては神気が強く入ったもの、弱いものが有るようです。一般の人には分かりづらいらしいですが、神職の祈り具合で変わるそうです。

私は神職は霊能者だなと思う経験がありました。箱根神社で昇殿参拝をした折に、神職が友人の病の事を詳しく言上している祝詞を聞いたことがあります。実は友人は元気そうに見えても、乳がんで体質的にも弱く、そのことは他言していませんでした。

その祝詞を聞いて、友人は感動していました。神様はなんでもお見通しと感激していました。この体験は友人の敬神の思いが神様に通じたのでしょう。

「縁なき衆生は救いがたし」と云われるように、ご縁がないと神様も救えないようです。神様信仰は繊細微妙な面があります。本人に神秘体験して頂くしかないような気もします。

熱田神宮で昇殿参拝、御垣内参拝などを実行してみるのはいかがでしょう。何らかの証があるかもしてませんよ。その時のポイントは雑念を払い、素直に謙虚にお願いするのがよく、人類の平和とか大きなことを祈り、自分の願いは一割程度に抑えるのがコツだそうです。

「縁なき衆生は救いがたし」は誠に言いえて妙なフレーズですね。だってこのフレーズを聞いたときに、ご縁が結ばれていると思いませんか。全てご縁だと思います、ご縁のある方はどうぞお参りください。

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