平清盛がパワースポット厳島神社を熱心に崇敬していた話は有名です。
この厳島神社への信仰が平清盛をはじめとした平家を繁栄に導いたと云われます。
平清盛自身厳島神社のお陰という自覚があったればこそ、熱心に崇敬したと思われます。
では、なぜ平清盛が厚く崇敬するようになったのでしょうか?それには厳島神社の宮司の佐伯氏が関わっているのです。
安芸の宮島、厳島神社とは
宮島は、太古からその島の姿と、弥山(みせん)を主峰とする山々と、原始林に覆われた山容が醸し出す霊気で、人々の自然崇拝の対象、いわゆるパワースポットとなっていたようです。
宮島は厳島(いつくしま)とよばれ、これは「神を斎(いつ)き祀る島」という意味で「島全体が御神体」と考えられています。現在でも忌ごとと考えられ、葬儀などは、島内では行わないしきたりが残っています。
厳島神社は、社伝によると推古元年(593)に佐伯部の有力者であった佐伯鞍職(さえきくらもと)により創建されました。
佐伯鞍職が市杵島姫命(宗像大社の神)の神託をうけて 勅許(天皇の許可)を得て建てたと言われています。
厳島神社に奉られている神様は「宗像三女神」と総称される3柱の姉妹神です。
「宗像三女神」は「宗像大社」の主祭神でそれぞれ市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、多岐津姫命(たきつひめのみこと)といいます。
海上運行・運輸の守り神、財福の神、技芸の神として信仰されています。
佐伯氏と空海
日本書紀によると部民としての佐伯部は、もともと大和朝廷に敵対した東国人(蝦夷)の捕虜であったといいます。
景行天皇の命で、東国より播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのが佐伯部の祖であり、瀬戸内の地に定住していったと思われます。
また、天皇家の武力を担ってきた名族「大伴氏」の支族に「佐伯連(さえきのむらじ)」があり、佐伯連は中央政府で佐伯部を管理する立場にありました。
「佐伯部」を管轄する「大伴氏の佐伯連」の下に、地方で「佐伯部」を管理する役職に当たっていた一族が「佐伯直(さえきのあたい)」と呼ばれる一族です。
当時「佐伯」を名乗る一族は3系統存在したようで、讃岐国でも2系統の佐伯氏が存在していました。その一つが空海の実家となります。
空海の出自の佐伯氏は地方豪族であり、、中央との繋がりもある事から、大伴氏支族の佐伯氏と思われます。
厳島神社の創建は安芸にいた佐伯直の末裔に当たる佐伯鞍職であるとなっています。
そして、厳島神社の社家となった 佐伯氏は、讃岐の佐伯氏と同じルーツと思われます。
806年に、空海(弘法大師)が唐から帰朝し、都へ帰る途中に宮島から霊気を感じ取り、ここは霊場に違いないと同族の支配地である厳島の御神体山(弥山)に御堂を建て、求聞持の修法をされました。
このとき修法で使われた火が、今なお弥山霊火堂で燃え続けている「消えずの火」です。
遂に、「消えずの火」が宮島弥山大聖院から、港区三田弘法寺にまいりました。
本日はバレンタインデーですが、大聖院は恋人の聖地です。
この「消えずの火」は万病に効く、幸せになる、縁結びのご利益があります。「消えない愛の火」とでも言いましょうか。 pic.twitter.com/gtebAqp1Mn
— 眞壁 光明 (@makabemitsuaki) February 14, 2021
厳島と平清盛
平家の総帥であった平清盛は、1146年に安芸守の任に就きました。
29歳という若さで、瀬戸内海の制海権を手にし、日宋貿易で富を得ました。
「平家物語」によると、この頃に清盛はある夢を見たそうです。
その夢は、僧が清盛に「厳島神社を造営すれば、必ず位階を極めるだろう」というお告げです。
清盛はお告げにしたがって、厳島神社の造営を行い、篤く信仰しました。
社殿の造営以外にも、京都や大阪の文化を伝えたり、美術・工芸品などを奉納しました。
中でもよく知られているのが、国宝 平家納経です。
平家納経は、清盛自筆の第1巻願文からはじまり、平家一門の写経が収められています。
平家の栄華は厳島神社のご加護あってこそと、喜びと感謝の意を示して奉納されました。
この事からわかるように平清盛本人が厳島神社の功徳を実感していたのです。
厳島神社の見所
国宝や重要文化財が目白押しの厳島神社で、絶対外せない3つの建造物があります。
1つ目は宮島のシンボルの「大鳥居(おおとりい)」
海面に堂々と立つ朱塗りの大鳥居は、なんと高さ約16mもあります。
現在の大鳥居は8代目にあたり、2本の主柱は樹齢約500年のクスノキで作られています。
宮島は島自体が信仰の対象とされているため、神が宿る地上ではなく海上に大鳥居が建てられています。
大鳥居は海底に柱が埋まっているわけではなく「浮いている」状態とも言えます。
大鳥居の上部に玉石を詰めて「おもし」にし、約60tの重量を合計6本の柱で支えているのです。
土木構造物という視点から見ると、4脚造りで楠の自然木を使ってつくられています。
高さ約16m、主柱の高さ約13.4m、主柱の周り9.9m、棟の長さ23.3m。
これだけの大きさの鳥居を、本殿拝殿から約200m離れた洲の上に自らの重さを利用して自立させているのです。
大鳥居を例に基礎構造をみると、明治8年(1875)の造営の記録に「千本杭タタラ潟より切出す」とあり、杭が打設されていたことがわかります。
昭和20年代の調査で明治時代に補強されたコンクリート基礎と杭打ち地形が確認されており、コンクリートは補強に使ったものです。
コンクリートの下にあったのは松の基礎杭(千本杭)でした。
袖柱下の千本杭は、袖柱1本について30本ほどの数に達する。
長さはわかりませんが杭の間は2〜3寸(6〜9cm)です。
杭の腐食した部分を除去し、杭の間を厚さ1尺5寸(45cm)ほどのコンクリートで固め、その上に厚さ8寸(24cm)の板石を敷き並べて基礎としたのです。
こうした技術があって初めて、海中の軟弱地盤での自立が可能になったのです。
2つ目は、海に浮かぶ能舞台(のうぶたい)
1568年、観世太夫(観阿弥の子)が宮島ではじめて能を演じたとされる舞台です。
その後、約40年後に福島正則が常設の舞台を造営しました。
現在の舞台は、創建時の舞台を1994年に復元したものです。
春に行われる桃花祭では、この能舞台で三日間にわたり能が演じられます。
本年は4月15日16日の二日間行われ演目は「翁」のみです。
3つ目は反橋(そりばし)
勅使がこの反橋を渡り、本殿に入ったことから「勅使橋(ちょくしばし)」とも呼ばれています。
傾斜が急なため、渡るときには仮設の階段が設けられていました。
反橋の柱上部に、擬宝珠(ぎぼし)が付いており、毛利元就を示す刻銘があります。
反橋の上を歩くことはできません、出口近くにひっそりとあるので、見落とさないように
なぜ平清盛は繁栄したか
清盛が厳島神社の信仰をはじめたのは、1146年安芸の守に就任した時らしいです。
就任中に清盛が厳島信仰にめざめる何事かがあったようです。
「平家物語」によりますと
清盛は高野山の大塔を修理するよう鳥羽院から命じられていました。
何年もかけて修理がおわり、ふうやっと終わった。
感無量でね、清盛さんは弘法大師の廟の前で手をあわせていました。
そこへ、ひょっこひょこと年老いた僧が近づいてきます。
白髪頭でしわくちゃです。(清盛が祈ってると、横から話しかけます)
「ようやくこの塔も落成ですか」「はあ」
「次はあんた、厳島神社を修理なさい」
「は?」
「だいぶ荒れ果てているよ厳島神社。ゼヒ修理なさい。そうすれば平家の未来は安泰だよー」
そんなこと言いながら、年老いた僧は見えなくなりました。
ありがたくも弘法大師のお告げに違いない!
…以後平家は厳島神社を信仰するようになったという話です(「大塔建立」)。
平家は日宋貿易ということで、瀬戸内海で中国と貿易を行なっていました。
厳島は瀬戸内海航路の潮待ちの港のひとつであり、景勝地でもありました。
日宋貿易における使節を歓待する拠点とし利用していたわけです。
その関係もあり、海上交通の守り神として厳島神社を信仰しと思われます。
まとめ
厳島神社は平清盛が崇敬して以来、平家の氏神となりました。
その由来は、ある夜、清盛の夢枕に一人の僧が立ち「厳島神社を崇敬すれば、あなたは人としてのしての位をきわめることが出来るであろう」と述べた。
以後、清盛は数十回に渡り厳島神社に参詣し、平家は繁栄を極めました。しかし、その栄華も一瞬で終わります。
もともと宮島には厳島神社の宗像三女神を祀る前から、島全体を御神体とするような大神霊が鎮座しているそうです。
その神は厳島で表される如く、厳しい神の「居つく島」であり「意尽く島」ということです。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。
平家物語より
厳島の神様は功なり名を遂げる功徳がありますが、慢心し驕り高ぶると平家の様になりますよと歴史を通して教えているようです。
余録
20年から30年前ですが、台風の影響で神社の社殿が倒壊する出来事がありました。
屋根の部分はそのままで、柱の部分が倒れペシャンコになっていたのです。
いくら台風が強力でも神社が潰れるのは前代未聞級の出来事です。
時を同じくして、ニュースで神職が博打をしていたという報道がありました。
屋根の部分が神様で、支える柱が人(神職)だとなぞらえてみると、支える人が穢れて倒壊したのだというのも頷けます。
同じような出来事が、神戸の三宮神社でも起こっていたと記憶しています。
偶然といえば偶然ですが、厳島神社の神様の鉄槌かなあと、興味深い出来事です。