川崎大師はなぜ厄除け大師といわれるのが不思議でなりません。
川崎大師すなはち弘法大師は厄除け真言八祖空海ということになります。
弘法大師空海の足跡を見ると、厄除けに留まらず偉大な足跡を残しています。
しかしながら、疑問は川崎大師の成り立ちを見て納得いたしました。
平間兼乗が、弘法大師像を引き上げた時、42歳の厄除けの祈願をしていたからです。
川崎大師縁起
崇徳天皇の御代、武士の平間兼乗は、落ちぶれて川崎の地で漁師になっていました。
平間は無実の罪により生国尾張を追われ、貧しい暮らしを余儀なくされていたのです。
当時、兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していたといいます。
平間は42歳の厄年の時に我が身の不運を顧みて、厄除け祈願を続けていました。
そんなある夜、夢で一人の高僧が現れ、彼に告げるのです。
「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未(いま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」
お告げに従い、兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じます。
すると一躰の木像が引き揚げられ、それは大師の尊いお像でした。
兼乗は随喜してこのお像を浄め、草庵をむすび、朝夕香花を捧げ、供養いたしました。
その頃、高野山の尊賢上人が、たまたま兼乗のもとに立ち寄られます。
お像にまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗とともに、1128年に一寺を建立しました。
そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号します。
御本尊を厄除弘法大師と称し、これが大本山川崎大師平間寺のおこりです。
兼乗が厄除けをしていた時に出現した弘法大師の像だから、厄除け弘法大師となったのでしょう。
弘法大師空海
空海は1200年前に実在した真言密教の八祖であります。
讃岐国の佐伯氏の出身で幼い頃から異能の持ち主だったといいます。
18歳の時に大学に入学するものの、在学中に密教に出会い出家をします。
高級官僚の道を捨てて、苦修練行の旅をする私度僧となり密教を極めようとします。
強烈な神秘体験をした空海は24歳の時に著作「三教指帰」を書き上げています。
弘法大師の伝説
弘法大師に関する伝説は、5,000以上あるとされ、空海の足跡をはるかに越えたいます。
中世、全国を勧進して廻った高野聖などが弘法大師と解釈されたのかも知れませんね。
寺院の建立や仏像、聖水、岩石、動植物など多くの偉業が残っています。
特に弘法水に関する伝説は千数百件も残っているようです。
これらは、弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった伝承です。
弘法大師が発見したとの伝承のある温泉は、下記のようなものがあります。
|
⬆️ウィキペディア参照
まとめ
川崎大師が厄除け大師として有名な理由はその創建時に原因があったのです。
平間が42歳の厄年の時に我が身の不運を顧みて厄除け祈願を続けていたから。
しかし、諸願もまた満足すべしとも言っていますので厄除けだけではありません。
衆生の困窮している事全般の願いも聞き入れてくれるのです。
弘法大師の像に込められた、弘法大師の願いが顕現するのが川崎大師なのでしょうね。
「南無大師遍照金剛」と3回声明して願いを念じれば、願いが叶うとも云われており、
多くの衆生を死して尚、救済していただけるのは有り難いことです。